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千歳神社 (北海道千歳市)

千歳神社 (ちとせじんじゃ)




旧郷社、艦内神社元宮(護衛艦ちとせ)

神紋:左三つ巴

祭神:豊受姫大神(とようけひめのおおかみ)、伊智伎志摩比売命(いちきしまひめのみこと)

交通機関:JR千歳駅から車で5分




千歳神社は北海道の空の玄関口、新千歳空港のある千歳市の総鎮守で青葉公園内に鎮座する。

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鳥居は国道36号線に面して建っており、参道の脇を千歳川が流れる。

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更に進むと右手に立派な社務所、正面の丘の上に千歳神社の社殿が鎮座している。

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社殿へと登る石段の右側には「幸井の水」という湧水が湧いており、ポリタンクを持った人が水を汲みに来ていた。

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ちなみに石段の左側には境内社が建っており、鹿島社か香取社のいずれかだと思うがどちらか分からないので次回参拝時に確認してみたいと思う。

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松前藩が編纂した資料である『福山秘府』(1780年)によると、「弁財天小社東夷地、志古津、万治元戌造営、同三年神体ヲ安置」とあり、万治元年(1658)に弁天堂が建立されたのが千歳神社の始まり。

千歳は元々はアイヌ語のシコツ(窪地)から志古津と呼ばれていた。

その後、千歳神社に保存されている「思古津稲荷社建立社記」によれば、享和3年(1803)に樺太南部探検に功績のあった勇払詰所役人・高橋治太夫が思古津場所の守護神として、京都伏見から「正一位思古津稲荷大明神」として稲荷大明神を奉斎し、文化2年(1805)に思古津場所の鮭漁が盛んになるに従って、さらに弁財天が勧請された。

この文化2年に祀られた弁財天の御厨子の裏に、箱館奉行・羽太正養により「死骨」から「千歳」と改称された由来が書かれ、この地を千歳と改めた。

明治8年(1875)に主祭神を豊受姫大神として郷社に列格。大正6年(1917)に「稲荷社」を「千歳神社」と改称して、昭和51年(1976)現社殿を造営し今日に至る。

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境内の背後には境内社の山神社が祀られていた。


・山神社

祭神:金山毘古神,金山毘売神,大山祇神

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山神社と書かれた立派な石標の他、石祠が三基あったが、もしかすると祭神一柱に一基ということなのだろうか…。


社殿の南側には下の参道から千歳市立図書館へつながる裏参道があり、そこに生えている木の袂に「ろうさん」と書かれた石柱が建っている。

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「ろうさん」

説明文によれば、「裏参道の女坂、シコツ十六場所のひとつ。ろうさん(アイヌ語)意味は、ここより川や海(抜けていく道、ここより開けていく処)」

と書かれていた。

いわゆる和人とアイヌは仲が悪いと思われがちだが、鮭を中心とする諸物産などの交易が行われており、ここはそのアイヌとの交易場所一つであったという。


千歳神社の印象としては北海道特有の県社クラスの立派な社殿の他に、境内のあちらこちらに道祖神が祀られていたのが印象に残った。

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・護衛艦「ちとせ」

海上自衛隊の護衛艦「ちとせ」には千歳神社の御分霊が祀られていた。

艦名は千歳川に由来する。

千歳川は日本で二番目の水深を誇る支笏湖を水源とし、東北東に流れ、千歳神社のすぐ北を通り千歳市市街地を通ってから北へと流れを変え、途中、千歳市・長沼町・恵庭市・北広島市・南幌町・江別市の境界として江別市内で夕張川と共に石狩川へ合流する。総延長



ちなみに旧海軍の「千歳」は筑後川由来であるので、艦名基準から言えば厳密には初代となる。


ちなみに護衛艦の「いしかり」「ちとせ」「ゆうばり」の由来となっている石狩川・千歳川・夕張川はいずれも石狩川水系の一級河川で、千歳川と夕張川は石狩川に合流する。


いしかり×ちとせ×ゆうばり…(゚A゚;ゴクリ

佐嘉神社 (佐賀県佐賀市)

佐嘉神社 (さがじんじゃ)




別格官幣社、別表神社

旧国郡:肥前国佐嘉郡

神紋:鍋島杏葉

祭神:鍋島直正,鍋島直大

例祭日:10月12日

最寄の交通手段:





佐嘉神社は佐賀県佐賀市中心部に鎮座する、佐賀藩主・鍋島直正、鍋島直大を祀る神社で旧別格官幣社、現在は神社本庁の別表神社に指定されている。

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「社号標」

神社が鎮座するのは佐賀市中心部、佐賀県庁などがある佐賀城跡のすぐ北側に祭神である鍋島家の居城だった佐賀城を望むように南向きに鎮座する。

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佐賀藩主・鍋島家の一族を祀った現在の佐嘉神社の境内社・松原神社をその前身として、幕末の名君、明治維新に功のあった鍋島直正、その子の直大を主祭神として祀る。

佐嘉神社の創祀は昭和8年(1933年)、それまで江戸時代に創建された松原神社の南殿に祀られていた鍋島直正命を祭神として「別格官幣社佐嘉神社」が造営され、昭和23年(1948年)10月9日に同じく南殿に祀られていた鍋島直大命を合祀した官国幣社の中ではかなり新しい神社。(松原神社については後述)

祭神の鍋島直正(文化11年-明治4年(1815年-1871年))は佐賀藩・10代藩主で、天保元年(1830年)に17歳で襲封以来、藩政改革や西洋の文物を取り入れ、砲台や日本で初めて反射炉を建設し西洋式大砲を自藩で製造するなど殖産を勧め、幕末から明治新政府に至るまで重要な役割をした「薩長土肥」の藩として明治維新に尽力した。

同じく祭神の鍋島直大(弘化3年-大正10年(1846年-1921年)は佐賀藩第11代藩主(最後の藩主)。鍋島直正の次男。戊辰戦争の際には明治新政府側として佐賀藩兵を率いて指揮を執り、明治政府では駐イタリア王国特命全権公使、元老院議官、宮中顧問官、貴族院議員等を歴任した。

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●境内社

・松原神社 (まつばらじんじゃ)

祭神:[北座]龍造寺隆信、龍造寺政家、龍造寺高房
  :[南座]鍋島清久、鍋島直茂、鍋島直茂室彦鶴姫、鍋島勝茂

神紋:十二日足、鍋島杏葉

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佐嘉神社の前身がこの松原神社である。

元々は佐賀城の前身を村中城といい、この地は龍造寺氏が治めており、鍋島氏は龍造寺氏の家臣であった。

しかし天正12年(1584年)の島津家との「沖田畷の戦い」で『肥前の熊』と呼ばれた龍造寺隆信が戦死すると、その子・龍造寺政家の補佐役として鍋島直茂が実権を握り、その後秀吉の命により龍造寺政家が隠居させられ、その子の龍造寺高房が家督を相続した事により実権を掌握、慶長12年(1607年)に高房・政家の死去により龍造寺宗家は断絶し、鍋島直茂が領地を継承した。

現在の松原神社に祀られているのは、旧主君の龍造寺隆信・政家・高房の三代と、当時の家臣であった鍋島清久(直茂の祖父)、直茂、彦鶴姫(直茂の正室・陽泰院)、勝茂(直茂の子・初代藩主)である。

現在の松原神社は一つの社殿だったが、かつては北殿・中殿・南殿と別れており、それぞれが違う歴史を持っている。

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「日峯大明神の扁額」


・松原神社 中殿

安永元年(1772年)6月1日に鍋島直茂命を祀り創建され「日峯大明神」と称していたのを、文化14年(1817)9月に鍋島清久命、直茂公室彦鶴姫命を合祀し、さらに明治5年(1872年)に初代藩主・鍋島勝茂命を合祀し「松原神社」と改称。後に北殿・南殿が造営される。


・松原神社 北殿

延享2年(1745年)正月、佐賀城内に龍造寺隆信命、政家命、高房命を奉祀したのが始まりで、天保5年(1834年)佐賀郡北山小川村(現・佐賀市大和町)に神殿を造営遷座し「敷山社」と称していたのが、明治6年(1873年)10月9日、松原神社に神殿を造営遷座され「松原神社 北殿」と改称。


・松原神社 南殿

明治6年(1873年)に松原神社に南殿を造営し、10代藩主・鍋島直正命、つづいて大正12年(1912年)に11代藩主・鍋島直大命が合祀されました。昭和8年、佐嘉神社を造営、鍋島直正命を「別格官幣社佐嘉神社」御祭神として奉祀、昭和23年10月9日に鍋島直大命を合祀されたことに伴い松原神社南殿は無くなる。


その後、昭和36年4月1日に佐嘉神社と松原神社は運営統合され、昭和38年に佐嘉神社御鎮座三十年式年大祭記念事業として松原神社並びに佐嘉神社東神苑を合一整備、松原神社御神殿・中殿・北殿を合一、一殿二座に改築し現在に至る。


松原神社の神門の前には白磁製の灯籠と大理石製の手水鉢が奉納されている。

手水鉢は明治4年3月に直茂公御船手中により奉納され、傷みが激しくなってきたため平成16年に移設されたもの。

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「灯籠」

白磁製の灯籠は嘉永3年(1850年)8月に奉納され、平成16年に修復後移設された。

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「手水鉢」

松原神社の御朱印は佐嘉神社で戴くことができる。

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・松根社 (まつねしゃ)

祭神:古川松根

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祭神の古川松根命は文化10年(1813年)10月に佐賀藩邸での生まれ。その翌年12月に同じ邸内で鍋島直正公が生れており、幼少から晩年まで側近として仕えた。

明治4年(1871年)1月21日、東京麹町永田町の直正公終焉の館内にあった舎宅にて殉死。

「礼道・芸道・学問の神」として信仰されている。

松根社の前には「純忠之碑」が建立されている。

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「純忠之碑」は題を佐賀藩11代藩主・鍋島直大の篆額、撰文は久米邦武、書は相良頼善によるもので、明治23年(1890年)に、鍋島家の墓所がある東京都港区元麻布にある賢崇寺境外の直正墓所入口に建立された。

祭神の古川松根が直正に殉死する前日のなどが記されている。平成10年の墓所改葬に伴い現在地に移設された。



佐嘉神社の境内には他にも松原稲荷神社、松原恵比須神社、佐嘉荒神社、松原河童神社、松原梛木社があり、佐嘉神社と松原神社と松根社を含めて「八社詣で巡り」が行われています。

自分が参拝したときは松原梛木社は入っておらず「七社詣で」だったのだが、増えた…w

ちなみに当時は急いでいたのと車が半分故障状態でまともにクラッチが切れない状態だったこともあり境内社の多くは参拝せず…落ち着いて参拝ができなかった…

天岩戸神社 西本宮 (宮崎県高千穂町)

天岩戸神社 西本宮 (あまのいわとじんじゃ にしほんぐう)




旧村社、別表神社

旧国郡:日向国臼杵郡

祭神:[主祭神]天照大御神、大日孁尊
  :[配祀]日子穂穂手見命,豊玉毘売命,菅原道真

神紋:菊、五三桐、下り藤

例祭日:5月2日(西本宮)、9月22日(東本宮)

最寄の交通手段:




天岩戸神社は宮崎県高千穂町に鎮座する神社で、日本神話において天照大神が天岩戸に隠れた岩戸隠れ伝説の舞台である。

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「西本宮参道入口」

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「西本宮社号標」

天岩戸神社は高千穂町中心部から北東約5kmの岩戸川を挟んで東本宮と西本宮の両宮が鎮座する。

主に観光客が訪れるのは西本宮の方で、西本宮の拝殿裏から天岩戸とされる岩壁を遥拝する形になっている。

参道入口には祭神の天照大御神の銅像のほかに手力男命の像も建っている。

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更に進むと左手に社務所があり、その先の右手に対岸の天岩戸を遥拝するように神門、拝殿がある。

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社伝によれば瓊々杵命が鎮祭された古社といわれ、弘仁3年(812年)に、三田井家の遠祖・大神惟基によって再興された。

その後、文政4年(1821)に社殿を改造し、幕末には藩主・内藤氏の篤い崇敬を受けた。

明治30年(1897)に社殿を造営。


拝殿の右手前方にはオガタマノキ(招霊の木・黄心樹)が生えており、オガタマノキは天鈿女命がこの枝を持って舞い、今の神楽鈴の起源だといわれている。

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この木は昭和29年の常陸宮殿下の御成年式、昭和39年の御結婚の際にこの苗木が献上された。(常陸宮殿下のお印がおがたまの花で、常陸宮家の紋が菊花紋の周囲におがたまの花が配されている。)

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このオガタマノキの苗を神社の授与所で受ける事ができる。少々初穂料が高いけど…。(育ててます)


他にも拝殿左側には古代銀杏の木もある。

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長野県諏訪とここにしか無いものらしい。

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御朱印の他、オリジナルの御朱印帳もある。今回は他にも御朱印帳があったので頂かなかった。

白河鹿嶋神社 (福島県白河市)

鹿嶋神社 (かしまじんじゃ)




日本三鹿島、旧県社、艦内神社元宮(軽巡洋艦「阿武隈」)、白河総鎮守

延喜式内社:陸奥國白河郡 白河神社

神紋:左三つ巴

祭神:武甕槌命

交通機関:





白河鹿嶋神社は福島県白河市の中心部から東南東2kmの阿武隈川と東北本線との間にある甕森山の南麓に鎮座する。

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「参道入口」

木々の並んだ参道の両脇に車道が通っており、参道の途中の右側には境内社の淡嶋神社が、左側には金比羅神社が鎮座している。

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「参道」

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「淡嶋神社」


参道の木々が切れた辺りに狛犬というよりも、何このクリーチャーというユニークな顔をした狛犬が参拝者を迎え、その先に石造の太鼓橋がある。

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「ユニークな狛犬」

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「太鼓橋」

太鼓橋を渡ると随神門、その先が拝殿・本殿、拝殿の右側に参集殿と授与所がある。

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「随神門」

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「拝殿」

創建は光仁天皇の御代である宝亀年間(770-780年)にこの地に祭られ、嵯峨天皇の弘仁2年(811年)に坂上田村麻呂が東夷征伐の際、小田切・瀬上の神剣を祀り常陸国鹿嶋大明神(現・鹿島神宮)を勧請した。

延長5年(927年)に成立した延喜式神名帳に登場する式内社(白河神社)に比定されている。(白河関にある白河神社も)

白河地方の総鎮守とし、武の神、白河以北を守る神として、源頼義、北畠顕家、白河城主結城家からも崇敬を受けた。その後も歴代城主の尊崇が篤く、城主自ら奉幣や参籠、祭田や社殿の寄進もあった。

室町時代の文明13年(1481年)には白河城主・小峯政朝が神社において1万句奉納の連歌会を行い、連歌師・宗祗が京都からはるばる白河まで連歌会に出席するため訪れた。

文化3年(1783年)松平大和守により「鹿嶋大神宮」の扁額が、寛政7年(1796年)には松平定信により武田家に伝わる「楯無の鎧」を模造製作した「楯無鎧写(たてなしのよろいうつし)」(市指定文化財・白河市歴史民俗資料館蔵)が奉納された。

明治5年(1872年)に郷社、明治29年(1896年)に県社に列格された。

明治43年(1910年)火災により社殿諸々のほとんどを焼失したが、大正元年(1912年)再建された。

大正14年(1924年)に帝国海軍の軽巡洋艦「阿武隈」の守護神として分霊し、翌大正15年(1925年)にその返礼として東郷平八郎元帥より「鹿島宮」の扁額の奉納があった。(神社本庁「神社名鑑」)

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御朱印に「日本三鹿島」とあるが、もうひとつは間違いなく鹿島神宮だとして残りの一社はどこなのかは不明。


境内には最初にある淡嶋神社と金比羅神社の他に拝殿の左側に御神木と稲荷神社・神明神社・天神神社、参集殿の右側に松尾神社が鎮座している。

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「稲荷神社(宇迦之御魂神)・神明神社(天照皇大神)・天神神社(菅原道真公)」

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「松尾神社(大山昨神,中津島姫命)」

また、背後の甕森山には古代祭祀が行われたといわれる磐座もあるが、参拝した時間が遅く境内も暗かったため磐座までは登らなかった。




・軽巡洋艦「阿武隈」

帝国海軍の軽巡洋艦「阿武隈」には上でも書いたように、大正14年(1924年)阿武隈の艦内神社へ鹿嶋神社の御分霊が祀られていた。

艦名の由来となっている阿武隈川は流路長239kmと東北地方では北上川に次ぐ大河で、福島県と栃木県の県境・那須岳の最高峰の三本槍岳付近を源に東へ流れ、鹿嶋神社のある白河市を通り、隣の中島村付近で北へと流れを変える。そのまま福島県中通りを北上し福島市付近で北東に、宮城県丸森町で東・北と流れを変え角田市北部で東へ、蛇行しつつ岩沼市と亘理町の境界を形成しそのまま太平洋へと注ぐ。

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「軽巡洋艦・阿武隈 (昭和10年 佐世保)」

軽巡洋艦・阿武隈は長良型軽巡洋艦の6番艦として大正10年(1921年)12月8日に浦賀船渠にて起工、大正12年3月16日に進水、艤装中の翌13年に関東大震災が発生し就役が遅れ、大正14年(1925)5月26日に就役した。

昭和5年(1930年)10月20日の大演習中に軽巡「北上」と衝突事故を起こし艦首を損傷し、それまでのスプーン型からダブルカーブ型へと艦首形状を長良型では唯一変更する。

昭和14年(1939年)に第1水雷戦隊旗艦となり、昭和16年(1941年)の真珠湾攻撃の際には第17・18駆逐隊を率いて参加する。

翌昭和17年にビスマルク諸島・ジャワ攻略作戦・インド洋作戦に参加したのち北方の第5艦隊に編入され、昭和18年にはアッツ島沖海戦、キスカ島撤退作戦には旗艦として参加。

昭和19年10月25日のスリガオ海峡夜戦では先行した志摩艦隊の一艦として西村艦隊に続き現場へ到着したが敵魚雷艇の攻撃により魚雷1本が命中。

速力低下のため護衛として駆逐艦「潮」を伴いダピタンで応急修理後コロンへ向かうも、翌26日11時28分にネグロス島沖でアメリカ陸軍機B-24の空襲を受けて沈没。潮に救助された生存者はマニラへと輸送された。

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なお、艦名は2代目となる海上自衛隊のあぶくま型護衛艦「あぶくま」(DE-229)へと受け継がれている。

新冠氷川神社 (北海道新冠郡新冠町)

氷川神社 (ひかわじんじゃ)




旧郷社、日本最東の氷川神社

神紋:不詳(隅立二重四つ目?)

祭神:須佐之男命

例祭日:7月31日,8月1日

最寄の交通機関:






氷川神社は北海道の日高地方にある新冠町に鎮座する神社で、国内では最も東に鎮座する氷川神社である。

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競走馬の産地の一つの新冠町を通る国道235号と海に面した神社。

正式には氷川神社だが、鎮座している新冠町から通称「新冠氷川神社」とも呼ばれる。

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「社号標」

創建は万延元年(1860年)、新冠郡民一同の協議のうえ、武蔵国一宮の氷川神社を勧請し、文久元年(1861)9月16日、京都の仏師長沢庄太郎製作の御神像を祀り、高江村字タカエサラ(現在の判官館付近と思われる)に一堂を建立し御祭礼が行われた。

明治4年に村社、同8年に郷社となり、明治15年にタカエサラより現在地に移転した。

元の境内は24mの高台で風雨が強く樹木も育たず社殿の損傷も甚だしい為、境内を下げて、社殿と社務所の新築などのため、昭和48年11月に造営奉賛会を設立し改築工事が始まったが、境内地での先住民族遺跡発掘調査、オイルショック等不況のため着工が遅れ、昭和53年8月に社殿と社務所が完成し、同年8月30日に遷座祭が執り行われた。

昭和36年に高江の八幡神社、昭和41年朝日の日高見神社の二社が合祀された。

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全国には同名の氷川神社は200社余りあるが、北海道内にはこの新冠町と今金町に鎮座する2社があり、それぞれ国内の最東と最北の氷川神社である。

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「石鳥居の扁額(左)と拝殿の扁額(右)」

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「忠魂碑」

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「祖霊社」

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「先住民遺跡発掘慰霊之碑」

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道内に2ヶ所氷川神社があるというのは知っていて日高地方にあるっていうのもうろ覚えだった所で旅行帰りにたまたま通りかかってそのまま参拝した神社。

神職常駐だとは思っていなかったので御朱印が頂けたのが嬉しかった。

やはり風が強いせいなのか、周りに高い木が生えてない。振り返ると石鳥居の先に太平洋が広がる。

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藤島神社 (長野県岡谷市)

藤島神社 (ふじしまじんじゃ)



住所:長野県岡谷市川岸上1丁目1 (N36°03’12”、E138°02’04” )

最寄の交通手段:JR中央本線「岡谷駅」下車、シルキーバス・川岸線「中央印刷前」下車




藤島神社は長野県岡谷市に鎮座する神社。

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岡谷市のJR中央本線が分岐する場所の北西すぐの場所、川岸地区の中央印刷蠅ある県道14号線にひっそり鎮座している。

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「神社名は無く、「岡谷市指定史跡 川岸天竜河畔 諏訪明神入諏伝説の地」の標柱が立つ。」

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・神代の古戦場跡に鎮座する

ここは諏訪信仰において建御名方神と洩矢神との古戦場で、天竜川を挟んで対岸に洩矢神の本陣があったという洩矢神社があり、この藤島神社と対になっている。

鎮座している場所は建御名方神が本陣をおいた場所ということであるものの、祭神に関しての資料が手元にないため何とも言えず、諏訪大社の所管である藤島社が木花咲耶姫を祭神としているらしいという事などもあり、いまいちハッキリわからない。


ここに陣を置いたとされる建御名方神は諏訪大社の祭神でもあり諏訪信仰の中で最も重要な神様である。

延文元年(1356)の「諏訪大明神絵詞」によれば、元は洩矢神が諏訪地方を治めていて、そこに素盞嗚尊の子孫・建御名方命が諏訪に侵入して、この天竜川を挟んで対峙。洩矢神は鉄の輪、建御名方命は藤の枝で戦うも、洩矢神の持つ鉄の輪が建御名方命の藤の枝によって朽ちてしまったため敗北した。

この建御名方命と洩矢神の戦場となったのが現在の岡谷市川岸地区で、建御名方命が陣を構えたのはこの藤島神社のある場所で、洩矢神は天竜川を挟んで対岸の洩矢神社が本陣跡だと言われる。

洩矢神は建御名方命に服属して、建御名方命も洩矢神を排除するようなことはせず、諏訪の神は建御名方命に、洩矢神はその筆頭神官である神長官となり、子孫がそれぞれ大祝・諏訪家、神長官・守矢家として諏訪地方を共同で治めてきた。

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「藤島神社から対岸の洩矢神社を望む。(写真中央の森)」

ちなみに、藤島神社が鎮座するのは古戦場であるのと同時に、荒神塚古墳(こうじんづか)という古墳でもある。

県道の拡張工事などで石室などかなりの部分が壊されてしまい見る影もない。

現在、荒神塚古墳の遺物は岡谷市立美術・考古館において、展示収蔵されている。

天安河原宮 (宮崎県高千穂町)

天安河原宮 (あまのやすがはらぐう)




天岩戸神社摂社

旧国郡:日向国臼杵郡

祭神:思兼命、八百萬神





天岩戸神社といえば一般的に神社自体よりも「天安河原」が有名だろう。

天安河原は天岩戸神社・西本宮から更に道を進むと「天安河原入口」の案内板と道路から右へ降りていく道があり、そこから350m川沿いに歩いたところにある。

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天安河原と聞くと知ってる人は大きな洞窟を思い浮かべる人が多いと思うが、この河原一帯を天安河原と呼び、洞窟は仰慕窟(ぎょうぼいわや)という名前で、間口は40m、奥行きが30mあり、この中に天安河原宮が鎮座している。

天安河原は日本神話において天照大神が天岩戸に隠れた時に八百万の神が相談したという場所だと言い伝えられており、天安河原宮には天照大神を岩戸の外に出すための八百万の神に知恵を授けた思兼命と八百万の神が祀られている。

天安河原宮に参拝すると、願事成就や中風にかからない軽症で済むなどの神徳があるといわれる。

わりと最近では東国原英夫・元宮崎県知事が国政か県知事選か迷っている時に天安河原に訪れ「帰って来なさい。あなたがやりなさい」という不思議な声を聞いたというのが有名。

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天安河原一帯は緑に囲まれた中に、賽の河原のように沢山の石積みがあって、霊場のような厳かな雰囲気があります。

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天岩戸神社 東本宮 (宮崎県高千穂町)

天岩戸神社 東本宮 (あまのいわとじんじゃ ひがしほんぐう)




旧村社、別表神社

旧国郡:日向国臼杵郡

祭神:[主祭神]天照大御神、大日孁尊
  :[配祀]日子穂穂手見命,豊玉毘売命,菅原道真

神紋:菊、五三桐、下り藤

例祭日:9月22日(東本宮)、5月2日(西本宮)

最寄の交通手段:




天岩戸神社は宮崎県高千穂町に鎮座する神社で、日本神話において天照大神が天岩戸に隠れた岩戸隠れ伝説の舞台である。

一般的に参拝客が訪れるのが西本宮や奥にある天安河原だが、対岸の天岩戸側にある東本宮に参拝する人は西本宮に比べ少ない。

東本宮は西本宮の手前に掛かる天岩戸橋を渡った左側に参道の入口がある。



由緒説明などは西本宮の方に書いているので割愛。

まず参道入口の右側に天鈿女命の像が立っているのだが、これがセンサー感知で回転するのと同時に高千穂夜神楽が流れるので、事前情報無しで参拝すると結構驚く。

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「うごく!アメノウズメ」

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「参道」

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「変わった形の手水鉢」

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「神楽殿か」

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社殿の裏側へ回ると御神水と石祠がある。

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これは「大神宮の御神水」と呼ばれ、木の根元から湧き出しており、年間を通じて渇水することがなく戴いて飲用も可能との事。

ここから更に奥へ100mほどのところに樹齢600年余で根元がつながった七本に伸びている「七本杉」と呼ばれる大木があるものの御神域かつ保安林という事で立入禁止となっている。

弘前東照宮 (青森県弘前市)

弘前東照宮 (ひろさきとうしょうぐう)



住所:青森県弘前市笹森町38 (E140°28'41" N40°36'20" )

旧県社

旧国郡:陸奥國津軽郡

神紋:三つ葉葵

祭神:[主祭神]徳川家康
  :[配祀]天照皇大御神

例祭日:(7月16,17日)

最寄の交通機関:




弘前東照宮は青森県弘前市に鎮座している徳川家康を祭神とする東照宮で、正しくは東照宮だが地名から弘前東照宮と呼ばれていた。

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参道入口には社号標はおろか神社にあるはずの狛犬や灯籠・社務所などは何もなく、神社だと分かる部分は本殿と木々のみで、あとは何か建っていたと思われる広いスペースだけがそこにはあった。



・事業拡大に失敗した神社の末路は…

元和3年(1617)、弘前藩2代藩主・津軽信枚の正室として家康の養女・満天姫を迎え、東照大権現の真影を拝戴し、二代将軍・徳川秀忠の許しを得て城内に創建し北門鎮護・津軽安泰を祈ったという。

寛永元年(1624)現地に遷座、寛永5年に新たに別当寺として東照院(後に岩鬼山薬王院叡平寺と改称)が置かれ、桃井、山辺の二社家に祭祀を行わせ藩の直祭社として崇敬された。

明治12年(1879年)に郷社、明治14年(1881年)に県社に列格された。

昭和28年に重要文化財建造物として東照宮本殿が指定された。

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平成になり神社が運営していた結婚式場などへの過大投資やバブル崩壊の影響もあってか経営難になり、平成19年(2007年)に宗教活動を停止。

平成20年には文化財指定の本殿を除く境内や建物は競売にかけられ東京の不動産会社の所有になったものの債務整理が進まず、平成24年(2012年)4月に青森地方裁判所弘前支部から破産手続開始の決定を受け、神社の建物などは本殿を除いて全て取り壊された。

神社の破産は横浜市の伊勢山皇大神宮につづき2例目。

本殿は一時的に弘前市の所有となり競売等により売却される見通しで、参拝時(平成25年2月)には本殿の前の開口部には中に入れないように新たに板塀が付けられていた。

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平成27年(2015年)6月16日に、黒石市の黒石神社の摂社として新たに東照宮が建立され、弘前東照宮に祀られていた徳川家康公の御神体を遷座されると共に、前述の満天姫を神格化し相殿神として祀られたそうである。

ちなみに黒石神社のある黒石市は、弘前藩の支藩の黒石藩が置かれており、初代藩主は満天姫の子の津軽信英で、現在の黒石神社の宮司さんも黒石津軽家の方である。

山崎八幡宮 (山口県周南市)

山崎八幡宮 (やまさきはちまんぐう)




旧県社

旧国郡:周防國都濃郡

神紋:左三つ巴,三つ盛り亀甲に花菱

祭神:[主祭神]応神天皇
  :[配祀]田心姫命,湍津姫命,市杵島姫命,神功皇后

例祭日:4月10日,9月第4日曜

最寄の交通機関:JR山陽本線「新南陽駅」下車、徒歩12分





山崎八幡宮は山口県周南市(旧新南陽市)の永源山公園の麓に鎮座する神社。

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「山陽本線に掛かる跨線橋から真っ直ぐ神社へ伸びる道。奥の山は四熊ヶ岳(左)と法師ヶ岳(右)」

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「参道入口。神社の前を山陽道が横切る。」

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創建は和銅2年(709)8月に宇佐神宮より御分霊を新南陽市富田の河内にある神室山に祀ったのが始まりとされる。

宝亀元年(770)11月に山崎の現在地に遷座し、最初「江宮」(えのみや)と称した後に神仏習合の時「壮寺八幡宮」と改称する。

江戸時代には徳山藩歴代藩主の御祈願所として藩主の社参、代参がたびたびなされ深く崇敬されてており、徳山藩内の二大崇敬社として「武の神」の遠石八幡宮に対して「文の神」の山崎八幡宮として近隣の氏神として信仰された。

江戸時代の現在の山口県域の寺社について纏めた『防長寺社由来』には西国七社明神のうちの一つとされている。

ちなみにこの西国七社明神についてはその「西国」の範囲がどの範囲なのかがはっきりせず、長門・周防
国の範囲なのか、もっと広い範囲での七社なのかが分からないという話だった。

元治元年(1864)に山崎八幡宮に改称。

明治4年に郷社、昭和5年に県社に列格された。

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「神社の石段から新南陽市街。奥に見えるのは東ソーの工場群。」

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「両側の石柱に書かれている文字は寺内正毅による揮毫。」

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「神門」

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「拝殿」

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「本殿」

山崎八幡宮からさらに登って行くと新南陽護国神社(永源神社、富田護国神社とも)が鎮座しており、その先が永源山公園で、新南陽のランドマークでもある「ゆめ風車」が建っています。


御朱印の墨書は印刷したものではあるものの、徳山藩最後の藩主である毛利元蕃の社名の揮毫をそのまま印刷したもので、ただPCのフォントを使って印刷した御朱印と違ってかなり良い。

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大洗磯前神社 (茨城県東茨城郡大洗町)

大洗磯前神社 (おおあらいいそさきじんじゃ)




旧国幣中社、別表神社、巡洋艦「那珂」・護衛艦「いそゆき」艦内神社元宮

延喜式内社:常陸国鹿島郡

神紋:三つ巴

祭神:[主祭神]大己貴命
  :[配祀]少彦名命

例祭日:9月9日

最寄の交通手段:JR「大洗駅」下車







大洗磯前神社は茨城県東部の大洗町に鎮座する神社で、古くは式内社、近代社格では旧国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社に指定されている。

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「大鳥居」

神社は大洗市街地の東側の海岸沿いの丘の上に鎮座していて、神社から海岸線を北に向かうと那珂川が、那珂川対岸のひたちなか市には大洗磯前神社と対となる酒列磯前神社が鎮座する。

車で参拝する場合は南側に車用の参道があり境内横にある駐車場から楼門をくぐって参拝することになるが、表参道は大己貴命が降臨したという磯鳥居がある大洗海岸方向に伸びている。

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「磯鳥居」

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「一の鳥居」

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「表参道石段」

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「随神門」

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「拝殿」

創建は文徳天皇の御代である斉衡3年(856)。

『日本文徳天皇実録』によれば、斉衡3年12月に常陸国鹿島郡の塩焼きを行う者が夜半に海上で光り輝く物を見て、翌日見ると二個の怪石があった。次の日また20余りの小石が左右に侍坐するように見えたという。

その後、里の人に神がかりして「我はこれ大己貴、少彦名神なり。昔この国を造り常世の国に去ったが、東国の人々の難儀を救う為に再びこの地に帰ってきた」と託宣した。

この事から大己貴命を大洗磯前神社に、少彦名命を酒列磯前神社に祀ることになった。

翌年の天安元年(857)8月に官社となり、同年10月に「薬師菩薩明神」の社号が授けられた。

延長5年(927)に纏められた『延喜式神名帳』には最も位の高い名神大社に列格された。

江戸時代の元禄年間(1688-1704)に水戸藩主・徳川光圀が社殿を造営し、享保15年(1730)に現在地へ遷宮された。

明治7年9月に県社、明治18年4月に国幣中社に列格され、現在は神社本庁の別表神社に指定されている。

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「拝殿」

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「本殿」

拝殿前の左側には絵馬が沢山掛けられているが、最近は大洗を舞台にしたアニメ『ガールズパンツァー』で神社の参道が登場し、楼門にスタンプラリーが設置してあるため自分も含め多数のファンが訪れ、更に『艦隊これくしょん』の軽巡洋艦・那珂との関係から、絵馬はほとんどが痛絵馬という鷲宮状態に…。

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社殿の右側には大神宮(天照皇大神)、静神社(建葉槌命,手力雄命,高皇産霊尊,思兼神)、水天宮(天御中主神,安徳天皇,建礼門院二位尼)が、

左側には大杉神社(大物主命)、水神社(罔象女命)、八幡宮(玉依比売命,大帯姫命,応神天皇)の境内末社が鎮座している。

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「大神宮・静神社・水天宮」

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「大杉神社・水神社・八幡宮」


随神門の左手、駐車場へ向かう途中に「軍艦那珂忠魂碑」が建っている。

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「軍艦那珂忠魂碑」

軽巡洋艦「那珂」は川内型軽巡洋艦の3番艦で、艦内神社には大洗磯前神社の分霊が祀られていたという。

忠魂碑の文字は那珂艦長・今和泉喜次郎海軍大佐による揮毫。

ちなみに、退役した海上自衛隊の護衛艦「いそゆき」にも大洗磯前神社の神札が祀られていたそうである。


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石川護国神社 (石川県金沢市)

石川護國神社 (いしかわごこくじんじゃ)




旧内務大臣指定護国神社、別表神社

旧国郡:加賀国石川郡

神紋:桜?

祭神:石川県出身・並びに第九師団管内(富山・福井・岐阜・滋賀の一部)戦没の英霊44888柱,殉職自衛官15柱

例祭日:4月19日,10月19日

最寄の交通手段:JR「金沢駅」下車





石川護国神社は石川県金沢市に鎮座する護国神社。

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明治元年(1868)の戊辰・北越戦争で戦死した部隊長・水野寛友をはじめとする加賀藩の108柱の戦没者を明治3年(1870)に当時の金沢藩知事・前田慶寧が郊外にある卯辰山・鳶ヶ峰(現在の豊国神社境内)に「招魂社」を造営し祀ったのが始まり。

明治8年9月には官祭で祭祀が行われることになり、明治34年に「官祭招魂社」と改称。

しかし、社殿が市街地から離れた卯辰山にあり境内も狭かったことから、昭和7年10月に社殿を造営するために石川県知事を会長とする奉賛会が組織され、昭和10年4月に陸軍小立野練兵場の一部であった現在地に遷座した。昭和14年4月に内務省令により社名を「石川護国神社」と改称。

終戦後の昭和24年4月には「石川神社」と改称するものの、昭和27年4月に「石川護国神社」に復称した。

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「社号標」

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「社殿」

拝殿内にある「顕忠」の扁額は金沢藩知事・前田慶寧によるもので、「忠義をあらわす」の意味。

昭和3年の創建時に招魂社に掲げられていたもので、招魂社の別名を「顕忠廟」と呼んでいたという。

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「「顕忠」の扁額」


個人的には当社の社紋が気になる所で、資料によれば桜紋という事なのだが、外側の花弁のようなのは桜だと思うが、真ん中のは桜というよりも「桔梗形五つ菱」という感じである。社務所で聞いてみればよかったと後悔…。

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「社紋」

なお、拝殿内で授与品としてある祈願絵馬が護国神社らしく、九七式中戦車・航空母艦「加賀」・一式戦闘機「隼」の陸海空3パターンある。

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ちなみに初穂料は300円。


石川護国神社も他の護国神社と同様に沢山の石碑がある。

そのうちの「大東亜聖戦大碑」は平成12年(2000)に建てられた石碑で、裏面には「八紘爲宇」と刻まれている。

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「大東亜聖戦大碑」

他にも

シベリア抑留者慰霊之碑、愛馬之碑、殉難婦女子之碑、軍馬之碑、ミレー島戦士の碑、清水澄博士顕彰之碑、傷痍軍人慰霊之碑、陸軍少年飛行兵慰霊顕彰碑、石川県海軍将兵戦没者之碑、大東亜聖戦大碑、日露戦役凱旋記念碑、至誠通神の碑、慰霊平和記念碑、歩兵八十三聯隊之碑

がある。

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浅間神社 (北海道松前郡松前町)

淺間神社 (あさまじんじゃ)




旧村社

神紋:剣花菱

祭神:木花咲耶姫

例祭日:6月16-18日

最寄の交通機関:




浅間神社は松前町市街地から国道228号線を上ノ国側へ11kmほど走った松前町静浦に鎮座する。

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「旧道から神社入口」

国道沿いには標識は無いので若干入口がわかりづらいかもしれない。旧道から神社への入口に浅間神社の標柱が立っている。

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「神社の標柱と脇を流れる雨竜川」

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道の脇を流れる雨竜川沿いに山側へ進んでいった先に浅間神社が鎮座していて、裏手にはグループホームがある。

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・最北の浅間神社

静浦の浅間神社は、木花咲耶姫を祭神とし富士山を神体山として信仰する浅間(せんげん・あさま)神社の社号を持つ神社としては全国で最北端の神社である。

昔、村民の多くは農山業に従事し山神尊崇の念が篤く、隣村の赤神神社の祭神が大山祗命を祀っていたことから、その御子神である木花佐久耶姫命を奉斎することに村中で決し、元禄2年(1689)に上雨垂石崎に社殿を建立し勧請奉斎したのが始まりという。

明治9年10月に当時の雨垂石村(のちに合併し小島村、さらに松前町と合併する)の村社に列格、同41年7月25日に氏子・石山常作より土地の寄附があり、大正2年3月20日社殿移転並びに改築の出願し許可を得、移転改築落成し遷座する。

大正8年10月14日、本殿建築拝殿模様替出願許可せられ同11月7日落成。

更に同10年11月移転出願とともに社殿模様替出願許可を得て落成奉遷、同11年1月8日に神饌幣帛料供進神社に指定された。同15年、拝殿・向拝・神饌所改築出願許可を得て落成。昭和21年に宗教法人を設立し、昭和30年12月15日に現在地に遷座した。

本務社は松前神社。

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「石鳥居の扁額と社号標」

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「手水鉢」

参拝時に境内で氏子さんが焼肉をしていて、自分も呼ばれて焼肉を頂いてしまった。

ちなみに、静浦地区は佐藤姓と石山姓の多い地域で、集まっていた氏子さん達も佐藤さんと石山さんだそう。

白河鹿嶋神社 (福島県白河市)

鹿嶋神社 (かしまじんじゃ)




日本三鹿島、旧県社、艦内神社元宮(軽巡洋艦「阿武隈」)、白河総鎮守

延喜式内社:陸奥國白河郡 白河神社

神紋:左三つ巴

祭神:武甕槌命

交通機関:





白河鹿嶋神社は福島県白河市の中心部から東南東2kmの阿武隈川と東北本線との間にある甕森山の南麓に鎮座する。

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「参道入口」

木々の並んだ参道の両脇に車道が通っており、参道の途中の右側には境内社の淡嶋神社が、左側には金比羅神社が鎮座している。

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「参道」

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「淡嶋神社」


参道の木々が切れた辺りに狛犬というよりも、何このクリーチャーというユニークな顔をした狛犬が参拝者を迎え、その先に石造の太鼓橋がある。

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「ユニークな狛犬」

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「太鼓橋」

太鼓橋を渡ると随神門、その先が拝殿・本殿、拝殿の右側に参集殿と授与所がある。

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「随神門」

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「拝殿」

創建は光仁天皇の御代である宝亀年間(770-780年)にこの地に祭られ、嵯峨天皇の弘仁2年(811年)に坂上田村麻呂が東夷征伐の際、小田切・瀬上の神剣を祀り常陸国鹿嶋大明神(現・鹿島神宮)を勧請した。

延長5年(927年)に成立した延喜式神名帳に登場する式内社(白河神社)に比定されている。(白河関にある白河神社も)

白河地方の総鎮守とし、武の神、白河以北を守る神として、源頼義、北畠顕家、白河城主結城家からも崇敬を受けた。その後も歴代城主の尊崇が篤く、城主自ら奉幣や参籠、祭田や社殿の寄進もあった。

室町時代の文明13年(1481年)には白河城主・小峯政朝が神社において1万句奉納の連歌会を行い、連歌師・宗祗が京都からはるばる白河まで連歌会に出席するため訪れた。

文化3年(1783年)松平大和守により「鹿嶋大神宮」の扁額が、寛政7年(1796年)には松平定信により武田家に伝わる「楯無の鎧」を模造製作した「楯無鎧写(たてなしのよろいうつし)」(市指定文化財・白河市歴史民俗資料館蔵)が奉納された。

明治5年(1872年)に郷社、明治29年(1896年)に県社に列格された。

明治43年(1910年)火災により社殿諸々のほとんどを焼失したが、大正元年(1912年)再建された。

大正14年(1924年)に帝国海軍の軽巡洋艦「阿武隈」の守護神として分霊し、翌大正15年(1925年)にその返礼として東郷平八郎元帥より「鹿島宮」の扁額の奉納があった。(神社本庁「神社名鑑」)

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御朱印に「日本三鹿島」とあるが、もうひとつは間違いなく鹿島神宮だとして残りの一社はどこなのかは不明。


境内には最初にある淡嶋神社と金比羅神社の他に拝殿の左側に御神木と稲荷神社・神明神社・天神神社、参集殿の右側に松尾神社が鎮座している。

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「稲荷神社(宇迦之御魂神)・神明神社(天照皇大神)・天神神社(菅原道真公)」

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「松尾神社(大山昨神,中津島姫命)」

また、背後の甕森山には古代祭祀が行われたといわれる磐座もあるが、参拝した時間が遅く境内も暗かったため磐座までは登らなかった。




・軽巡洋艦「阿武隈」

帝国海軍の軽巡洋艦「阿武隈」には上でも書いたように、大正14年(1924年)阿武隈の艦内神社へ鹿嶋神社の御分霊が祀られていた。

艦名の由来となっている阿武隈川は流路長239kmと東北地方では北上川に次ぐ大河で、福島県と栃木県の県境・那須岳の最高峰の三本槍岳付近を源に東へ流れ、鹿嶋神社のある白河市を通り、隣の中島村付近で北へと流れを変える。そのまま福島県中通りを北上し福島市付近で北東に、宮城県丸森町で東・北と流れを変え角田市北部で東へ、蛇行しつつ岩沼市と亘理町の境界を形成しそのまま太平洋へと注ぐ。

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「軽巡洋艦・阿武隈 (昭和10年 佐世保)」

軽巡洋艦・阿武隈は長良型軽巡洋艦の6番艦として大正10年(1921年)12月8日に浦賀船渠にて起工、大正12年3月16日に進水、艤装中の翌13年に関東大震災が発生し就役が遅れ、大正14年(1925)5月26日に就役した。

昭和5年(1930年)10月20日の大演習中に軽巡「北上」と衝突事故を起こし艦首を損傷し、それまでのスプーン型からダブルカーブ型へと艦首形状を長良型では唯一変更する。

昭和14年(1939年)に第1水雷戦隊旗艦となり、昭和16年(1941年)の真珠湾攻撃の際には第17・18駆逐隊を率いて参加する。

翌昭和17年にビスマルク諸島・ジャワ攻略作戦・インド洋作戦に参加したのち北方の第5艦隊に編入され、昭和18年にはアッツ島沖海戦、キスカ島撤退作戦には旗艦として参加。

昭和19年10月25日のスリガオ海峡夜戦では先行した志摩艦隊の一艦として西村艦隊に続き現場へ到着したが敵魚雷艇の攻撃により魚雷1本が命中。

速力低下のため護衛として駆逐艦「潮」を伴いダピタンで応急修理後コロンへ向かうも、翌26日11時28分にネグロス島沖でアメリカ陸軍機B-24の空襲を受けて沈没。潮に救助された生存者はマニラへと輸送された。

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なお、艦名は2代目となる海上自衛隊のあぶくま型護衛艦「あぶくま」(DE-229)へと受け継がれている。

新冠氷川神社 (北海道新冠郡新冠町)

氷川神社 (ひかわじんじゃ)




旧郷社、日本最東の氷川神社

旧国郡:日高國新冠郡

神紋:不詳(隅立二重四つ目?)

祭神:須佐之男命

例祭日:7月31日,8月1日

最寄の交通機関:






氷川神社は北海道の日高地方にある新冠町に鎮座する神社で、国内では最も東に鎮座する氷川神社である。

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競走馬の産地の一つの新冠町を通る国道235号と海に面した神社。

正式には氷川神社だが、鎮座している新冠町から通称「新冠氷川神社」とも呼ばれる。

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「社号標」

創建は万延元年(1860年)、新冠郡民一同の協議のうえ、武蔵国一宮の氷川神社を勧請し、文久元年(1861)9月16日、京都の仏師長沢庄太郎製作の御神像を祀り、高江村字タカエサラ(現在の判官館付近と思われる)に一堂を建立し御祭礼が行われた。

明治4年に村社、同8年に郷社となり、明治15年にタカエサラより現在地に移転した。

元の境内は24mの高台で風雨が強く樹木も育たず社殿の損傷も甚だしい為、境内を下げて、社殿と社務所の新築などのため、昭和48年11月に造営奉賛会を設立し改築工事が始まったが、境内地での先住民族遺跡発掘調査、オイルショック等不況のため着工が遅れ、昭和53年8月に社殿と社務所が完成し、同年8月30日に遷座祭が執り行われた。

昭和36年に高江の八幡神社、昭和41年朝日の日高見神社の二社が合祀された。

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全国には同名の氷川神社は200社余りあるが、北海道内にはこの新冠町と今金町に鎮座する2社があり、それぞれ国内の最東と最北の氷川神社である。

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「石鳥居の扁額(左)と拝殿の扁額(右)」

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「忠魂碑」

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「祖霊社」

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「先住民遺跡発掘慰霊之碑」

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道内に2ヶ所氷川神社があるというのは知っていて日高地方にあるっていうのもうろ覚えだった所で旅行帰りにたまたま通りかかってそのまま参拝した神社。

神職常駐だとは思っていなかったので御朱印が頂けたのが嬉しかった。

やはり風が強いせいなのか、周りに高い木が生えてない。振り返ると石鳥居の先に太平洋が広がる。

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藤島神社 (長野県岡谷市)

藤島神社 (ふじしまじんじゃ)



住所:長野県岡谷市川岸上1丁目1 (N36°03’12”、E138°02’04” )

最寄の交通手段:JR中央本線「岡谷駅」下車、シルキーバス・川岸線「中央印刷前」下車




藤島神社は長野県岡谷市に鎮座する神社。

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岡谷市のJR中央本線が分岐する場所の北西すぐの場所、川岸地区の中央印刷蠅ある県道14号線にひっそり鎮座している。

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「神社名は無く、「岡谷市指定史跡 川岸天竜河畔 諏訪明神入諏伝説の地」の標柱が立つ。」

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・神代の古戦場跡に鎮座する

ここは諏訪信仰において建御名方神と洩矢神との古戦場で、天竜川を挟んで対岸に洩矢神の本陣があったという洩矢神社があり、この藤島神社と対になっている。

鎮座している場所は建御名方神が本陣をおいた場所ということであるものの、祭神に関しての資料が手元にないため何とも言えず、諏訪大社の所管である藤島社が木花咲耶姫を祭神としているらしいという事などもあり、いまいちハッキリわからない。


ここに陣を置いたとされる建御名方神は諏訪大社の祭神でもあり諏訪信仰の中で最も重要な神様である。

延文元年(1356)の「諏訪大明神絵詞」によれば、元は洩矢神が諏訪地方を治めていて、そこに素盞嗚尊の子孫・建御名方命が諏訪に侵入して、この天竜川を挟んで対峙。洩矢神は鉄の輪、建御名方命は藤の枝で戦うも、洩矢神の持つ鉄の輪が建御名方命の藤の枝によって朽ちてしまったため敗北した。

この建御名方命と洩矢神の戦場となったのが現在の岡谷市川岸地区で、建御名方命が陣を構えたのはこの藤島神社のある場所で、洩矢神は天竜川を挟んで対岸の洩矢神社が本陣跡だと言われる。

洩矢神は建御名方命に服属して、建御名方命も洩矢神を排除するようなことはせず、諏訪の神は建御名方命に、洩矢神はその筆頭神官である神長官となり、子孫がそれぞれ大祝・諏訪家、神長官・守矢家として諏訪地方を共同で治めてきた。

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「藤島神社から対岸の洩矢神社を望む。(写真中央の森)」

ちなみに、藤島神社が鎮座するのは古戦場であるのと同時に、荒神塚古墳(こうじんづか)という古墳でもある。

県道の拡張工事などで石室などかなりの部分が壊されてしまい見る影もない。

現在、荒神塚古墳の遺物は岡谷市立美術・考古館において、展示収蔵されている。

天安河原宮 (宮崎県高千穂町)

天安河原宮 (あまのやすがはらぐう)




天岩戸神社摂社

旧国郡:日向国臼杵郡

祭神:思兼命、八百萬神





天岩戸神社といえば一般的に神社自体よりも「天安河原」が有名だろう。

天安河原は天岩戸神社・西本宮から更に道を進むと「天安河原入口」の案内板と道路から右へ降りていく道があり、そこから350m川沿いに歩いたところにある。

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天安河原と聞くと知ってる人は大きな洞窟を思い浮かべる人が多いと思うが、この河原一帯を天安河原と呼び、洞窟は仰慕窟(ぎょうぼいわや)という名前で、間口は40m、奥行きが30mあり、この中に天安河原宮が鎮座している。

天安河原は日本神話において天照大神が天岩戸に隠れた時に八百万の神が相談したという場所だと言い伝えられており、天安河原宮には天照大神を岩戸の外に出すための八百万の神に知恵を授けた思兼命と八百万の神が祀られている。

天安河原宮に参拝すると、願事成就や中風にかからない軽症で済むなどの神徳があるといわれる。

わりと最近では東国原英夫・元宮崎県知事が国政か県知事選か迷っている時に天安河原に訪れ「帰って来なさい。あなたがやりなさい」という不思議な声を聞いたというのが有名。

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天安河原一帯は緑に囲まれた中に、賽の河原のように沢山の石積みがあって、霊場のような厳かな雰囲気があります。

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天岩戸神社 東本宮 (宮崎県高千穂町)

天岩戸神社 東本宮 (あまのいわとじんじゃ ひがしほんぐう)




旧村社、別表神社

旧国郡:日向国臼杵郡

祭神:[主祭神]天照大御神、大日孁尊
  :[配祀]日子穂穂手見命,豊玉毘売命,菅原道真

神紋:菊、五三桐、下り藤

例祭日:9月22日(東本宮)、5月2日(西本宮)

最寄の交通手段:




天岩戸神社は宮崎県高千穂町に鎮座する神社で、日本神話において天照大神が天岩戸に隠れた岩戸隠れ伝説の舞台である。

一般的に参拝客が訪れるのが西本宮や奥にある天安河原だが、対岸の天岩戸側にある東本宮に参拝する人は西本宮に比べ少ない。

東本宮は西本宮の手前に掛かる天岩戸橋を渡った左側に参道の入口がある。



由緒説明などは西本宮の方に書いているので割愛。

まず参道入口の右側に天鈿女命の像が立っているのだが、これがセンサー感知で回転するのと同時に高千穂夜神楽が流れるので、事前情報無しで参拝すると結構驚く。

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「うごく!アメノウズメ」

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「参道」

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「変わった形の手水鉢」

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「神楽殿か」

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社殿の裏側へ回ると御神水と石祠がある。

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これは「大神宮の御神水」と呼ばれ、木の根元から湧き出しており、年間を通じて渇水することがなく戴いて飲用も可能との事。

ここから更に奥へ100mほどのところに樹齢600年余で根元がつながった七本に伸びている「七本杉」と呼ばれる大木があるものの御神域かつ保安林という事で立入禁止となっている。

弘前東照宮 (青森県弘前市)

弘前東照宮 (ひろさきとうしょうぐう)



住所:青森県弘前市笹森町38 (E140°28'41" N40°36'20" )

旧県社

旧国郡:陸奥國津軽郡

神紋:三つ葉葵

祭神:[主祭神]徳川家康
  :[配祀]天照皇大御神

例祭日:(7月16,17日)

最寄の交通機関:




弘前東照宮は青森県弘前市に鎮座している徳川家康を祭神とする東照宮で、正しくは東照宮だが地名から弘前東照宮と呼ばれていた。

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参道入口には社号標はおろか神社にあるはずの狛犬や灯籠・社務所などは何もなく、神社だと分かる部分は本殿と木々のみで、あとは何か建っていたと思われる広いスペースだけがそこにはあった。



・事業拡大に失敗した神社の末路は…

元和3年(1617)、弘前藩2代藩主・津軽信枚の正室として家康の養女・満天姫を迎え、東照大権現の真影を拝戴し、二代将軍・徳川秀忠の許しを得て城内に創建し北門鎮護・津軽安泰を祈ったという。

寛永元年(1624)現地に遷座、寛永5年に新たに別当寺として東照院(後に岩鬼山薬王院叡平寺と改称)が置かれ、桃井、山辺の二社家に祭祀を行わせ藩の直祭社として崇敬された。

明治12年(1879年)に郷社、明治14年(1881年)に県社に列格された。

昭和28年に重要文化財建造物として東照宮本殿が指定された。

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平成になり神社が運営していた結婚式場などへの過大投資やバブル崩壊の影響もあってか経営難になり、平成19年(2007年)に宗教活動を停止。

平成20年には文化財指定の本殿を除く境内や建物は競売にかけられ東京の不動産会社の所有になったものの債務整理が進まず、平成24年(2012年)4月に青森地方裁判所弘前支部から破産手続開始の決定を受け、神社の建物などは本殿を除いて全て取り壊された。

神社の破産は横浜市の伊勢山皇大神宮につづき2例目。

本殿は一時的に弘前市の所有となり競売等により売却される見通しで、参拝時(平成25年2月)には本殿の前の開口部には中に入れないように新たに板塀が付けられていた。

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平成27年(2015年)6月16日に、黒石市の黒石神社の摂社として新たに東照宮が建立され、弘前東照宮に祀られていた徳川家康公の御神体を遷座されると共に、前述の満天姫を神格化し相殿神として祀られたそうである。

ちなみに黒石神社のある黒石市は、弘前藩の支藩の黒石藩が置かれており、初代藩主は満天姫の子の津軽信英で、現在の黒石神社の宮司さんも黒石津軽家の方である。

山崎八幡宮 (山口県周南市)

山崎八幡宮 (やまさきはちまんぐう)




旧県社

旧国郡:周防國都濃郡

神紋:左三つ巴,三つ盛り亀甲に花菱

祭神:[主祭神]応神天皇
  :[配祀]田心姫命,湍津姫命,市杵島姫命,神功皇后

例祭日:4月10日,9月第4日曜

最寄の交通機関:JR山陽本線「新南陽駅」下車、徒歩12分





山崎八幡宮は山口県周南市(旧新南陽市)の永源山公園の麓に鎮座する神社。

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「山陽本線に掛かる跨線橋から真っ直ぐ神社へ伸びる道。奥の山は四熊ヶ岳(左)と法師ヶ岳(右)」

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「参道入口。神社の前を山陽道が横切る。」

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創建は和銅2年(709)8月に宇佐神宮より御分霊を新南陽市富田の河内にある神室山に祀ったのが始まりとされる。

宝亀元年(770)11月に山崎の現在地に遷座し、最初「江宮」(えのみや)と称した後に神仏習合の時「壮寺八幡宮」と改称する。

江戸時代には徳山藩歴代藩主の御祈願所として藩主の社参、代参がたびたびなされ深く崇敬されてており、徳山藩内の二大崇敬社として「武の神」の遠石八幡宮に対して「文の神」の山崎八幡宮として近隣の氏神として信仰された。

江戸時代の現在の山口県域の寺社について纏めた『防長寺社由来』には西国七社明神のうちの一つとされている。

ちなみにこの西国七社明神についてはその「西国」の範囲がどの範囲なのかがはっきりせず、長門・周防
国の範囲なのか、もっと広い範囲での七社なのかが分からないという話だった。

元治元年(1864)に山崎八幡宮に改称。

明治4年に郷社、昭和5年に県社に列格された。

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「神社の石段から新南陽市街。奥に見えるのは東ソーの工場群。」

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「両側の石柱に書かれている文字は寺内正毅による揮毫。」

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「神門」

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「拝殿」

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「本殿」

山崎八幡宮からさらに登って行くと新南陽護国神社(永源神社、富田護国神社とも)が鎮座しており、その先が永源山公園で、新南陽のランドマークでもある「ゆめ風車」が建っています。


御朱印の墨書は印刷したものではあるものの、徳山藩最後の藩主である毛利元蕃の社名の揮毫をそのまま印刷したもので、ただPCのフォントを使って印刷した御朱印と違ってかなり良い。

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