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太皷谷稲成神社 (島根県津和野町)

太鼓谷稲成神社 (たいこだにいなりじんじゃ)




旧郷社、別表神社、日本五大稲荷

旧国郡:石見國鹿足郡

神紋:四つ目結

祭神:宇迦之御魂神,伊弉冉尊

例祭日:11月15日

最寄の交通機関:JR山口線「津和野駅」下車、徒歩25分





太皷谷稲成神社は島根県と山口県の県境にある島根県津和野町に鎮座する稲荷神社です。

ちなみに分霊元は京都・伏見稲荷大社であるが、社号は「稲成」と付く。これは国内でも太皷谷稲成神社のみの社号。

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「徒歩の場合は麓の参道入口から…」

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「九十九折の千本鳥居の参道を登っていく」

島根県津和野町は「山陰の小京都」とも称される古い町並みが残っている山陰道沿いにある山間の町で、江戸時代には津和野藩の城下町として栄えました。

太皷谷稲成神社は、その津和野城(三本松城)の鬼門である北東の太鼓谷に安永2年(1773)5月15日、津和野藩7代藩主・亀井矩貞が城の安穏鎮護と住民の福祉多幸を祈願するため京都・伏見稲荷大社から勧請された。

明治の廃藩置県までは城の管理下にあり歴代藩主から崇敬されていましたが、廃藩置県後は一般庶民も参拝できるようになりました。

現在の社殿・参集殿・大鳥居などはは昭和44年に1億7千万円の巨費を投じて完成たもので、参拝客は年間150万人を超える西中国地方の霊場で、伏見稲荷大社・笠間稲荷神社・竹駒神社・祐徳稲荷神社、そして太皷谷稲成神社が『日本五大稲荷』のうちの一社にも数えられ、神社本庁の別表神社に指定されています。


また、麓からの参道に建てられた千本鳥居は実際に1200本余りが建っています。

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「千本鳥居」

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「神門」

千本鳥居の参道を登って行き、神門を通り抜けると太皷谷稲成神社の境内にたどり着く。

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「社殿と参集殿」

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「拝殿」

境内は鉄筋コンクリート造の2階建て。

1階部分は駐車場からそのまま乗り入れられるように車祓所が設けられており、その上が境内で社殿と参集殿などが作られている変わった構造をしています。

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「境内は鉄筋コンクリート造の2階建て」


神紋は稲荷神社特有の「抱き稲」の中に「四つ目結」の紋が入っています。

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「神紋の抱き稲に四つ目結」

恐らく津和野藩主だった亀井氏の家紋が四つ目結紋である関係だと思われます。



境内の東側、表参道の所に元宮があります。

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「表参道を登り切ったところにある元宮」

この元宮は現在の社殿が建てられる前の旧社殿で、大正12年に造営されたもので、同じく宇迦之御魂神の御分霊がお祀りされています。



境内からは眼下に津和野市街を一望できますが、津和野市街を挟んで向かいの山の中腹を通る国道沿いには太皷谷稲成神社の大鳥居が建っています

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「津和野市街」

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「向かいの国道沿いに建てられている大鳥居」

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高橋稲荷神社 (熊本県熊本市)

高橋稲荷神社 (たかはしいなりじんじゃ)




旧無格社、別表神社、日本五大稲荷、九州三大稲荷

旧国郡:肥後國飽田郡

神紋:宝珠と稲の丸

祭神:宇迦之御魂大神

例祭日:11月8日

最寄の交通機関:




高橋稲荷神社は熊本県熊本市西区に鎮座する稲荷神社で、日本五大稲荷、九州三大稲荷の一社に数えられる神社です。

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「北側の大鳥居」

創建は室町時代の明応5年(1496)、肥後守護・菊池氏の重臣で隈本城の初代城主・鹿子木親員(かのこぎ ちかかず)が支城として背後の稲荷山に上代城を築いた際に、城内鎮護のために京都の伏見稲荷神社から稲荷大明神を勧請したのに始まる。

しかし天文10年(1541)5月5日、上代城落城の際に稲荷神社も焼失した。

江戸時代に入り、麓にあった熊本藩主細川氏の菩提寺である海蔵寺の首座・義本氏が霊夢により稲荷神社再興の啓示を受け、寛文元年(1661)11月8日に現在地である稲荷山中腹に社殿を再建し、以降熊本藩主細川氏の崇敬を受けた。

明治維新の際に高橋稲荷神社に改称し、戦後は神社本庁の包括下となり昭和41年(1966)7月1日に神社本庁指定の別表神社となり、その際に鎮座310年及び別表神社加列記念事業として新たに社殿等が造営された。

現在は日本五大稲荷や九州三大稲荷の一社にも数えられています。

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平地と山の斜面に建てられている鉄筋コンクリート造の神社で、1階部分が城の石垣を模した構造、2階には神楽殿、3階に社殿と社務所という複雑な構造をしている。

構造としてデパートとかの立体駐車場を小さくして屋上に神社が乗っているような、そんなイメージ。島根県の太皷谷稲成神社に通じるものを感じます。

ちなみに、拝殿へ登り口の正面後ろにある鳥居から見た風景がTVアニメ『いなり、こんこん、恋いろは。』にも登場します。
「いなり、こんこん、恋いろは。」舞台探訪

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「下から本殿と拝殿を見上げる」

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「拝殿」

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「左が社務所、中央にあるのが祈願殿」

屋上にあたる部分には拝殿・本殿・社務所・祈願殿があり、ここから更に上に登ると奥の宮(玉釼社、源策社、峯吉社、元吉社、聖徳太子堂)がある。

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「拝殿の右に鎮座する三吉大明神」

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「祈願殿」

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「境内からの眺め」


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石狩八幡神社 (北海道石狩市)

石狩八幡神社 (いしかりはちまんじんじゃ)




旧郷社、艦内神社(護衛艦いしかり)

旧国郡:石狩國石狩郡

神紋:右三つ巴

祭神:[主祭神]誉田別命
  :[配祀]倉稲魂命
  :[合祀]伊波比主命,大国魂神,大那牟遅神,少彦名神

例祭日:9月14、15日

最寄の交通機関:





石狩八幡神社は札幌の北西部の石狩市の石狩川河口近くにある神社。

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石狩八幡神社は安政5年(1858年)に箱館総社八幡宮の末社として、当時の箱館奉行所に設立を願い出て認められました。

蝦夷地総鎮守として現在地の対岸である、石狩川右岸(現・八幡町)に建立されましたが、町の中心が本町地域に移ったため明治7年に現在地へ遷座されました。

明治8年には石狩郡の郷社となり、大正4年には神饌幣帛料供進神社となりました。

祭神の誉田別命のほかに、幕府石狩詰役所在勤の荒井金助が勧請した稲荷大神も祀られています。

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「扁額(出雲国造家・出雲大社大宮司の千家尊愛による揮毫)」

境内には、木戸孝允が兵部省石狩役所を主宰していた井上弥吉に依頼されて書いた書「文武一徳」「肇域四方」を刻んだ御神燈軸石も残されています。

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「御神燈軸石」

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・護衛艦『いしかり』

海上自衛隊の護衛艦「いしかり」の艦内には石狩八幡神社の御分霊が祀られていました。

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護衛艦「いしかり」(DE-226)は乙型警備艦(小型護衛艦)として建造された。同型艦は無い。

三井造船玉野事業所で昭和55年(1980年)3月18日進水、昭和56年(1981年)3月28日就役。

海上自衛隊の護衛艦としては初めてハープーンを装備した艦で、就役後は大湊地方隊・第32護衛隊に編入され、昭和58年に発生した大韓航空機撃墜事件の機体捜索や、有珠山噴火に伴う災害派遣準備などに従事した。

2007年10月17日、除籍。

起工:昭和55年(1980)3月18日 三井造船玉野事業所
竣工:昭和56年(1981)3月28日
排水量:1,290トン
全長:85.0m
全幅:10.6m
速力:25ノット
兵装:62口径76mm速射砲×1基、ハープーンSSM4連装発射筒×2基、71式ボフォースロケットランチャー×1基、68式324mm3連装短魚雷発射管×2基
除籍:平成19年(2007)10月17日


艦名の由来となった石狩川は総延長268km、北海道で最長の河川で、国内では信濃川・利根川に次いで第3位の長さ、流域面積では利根川に次いで国内2位の大河です。

大雪山の南東、上川町と上士幌町との境界にある石狩岳の西側を源とし、ここから旭川市のある上川盆地から石狩平野を経て石狩市で石狩湾へと注ぐ。

ちなみに「いしかり」の後に就役する「ゆうばり」「ちとせ」の由来となっている夕張川と千歳川はこの石狩川に流れ込む石狩川水系の河川です。

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「石狩川(河口の石狩灯台付近より)」

「いしかり」は石狩市の石狩湾新港に寄港したこともありますが、御分霊が祀られたのは「いしかり」が小樽港に入港した際に奉斎したとのこと。

最初は小樽港入港時など艦長以下士官や水兵も参拝に来ていたものの、石狩湾新港などで艦内の一般公開が行われるようになってからはそちらに人員を割かなければいけないため士官のみが参拝に来ていたという。

「いしかり」ゆかりの品としてはロープワークの額(社務所内に掲示)と退役時に使用していた軍艦旗2旒のうち1旒が奉納。軍艦旗には艦長のサインが入っている。(実際に拝見・撮影させていただきました)

他に現存する艤装品として、石狩八幡神社の前の通りを南西へ向かい突き当たった場所の左側にある「いしかり砂丘の風資料館」横に「いしかり」の主錨が屋外展示されている。

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これは護衛艦「いしかり」の退役に伴い平成20年(2008年)10月17日に)に設置されたもの。

実は船員退職しております

このブログでは神社やお寺の記事ばかりにしてほとんど手をかけていなかったんですが、とりあえず近況報告として、3年間働いた船員の仕事を退職しました。

地元にこだわるつもりはなく色々仕事を探してはいるのですが、なかなかこれといったやりたい仕事が無いというのが実情ですね。

飛鳥坐神社 (奈良県高市郡明日香村)

飛鳥坐神社 (あすかにますじんじゃ)




旧村社、国史見在社、元伊勢、艦内奉斎神社(試験艦あすか)

延喜式内社:大和國高市郡 飛鳥坐神社4座 (並名神大 月次・相嘗・新嘗)
     :大和國高市郡 飛鳥山口坐神社 (大 月次/新嘗)[境内摂社 飛鳥山口神社]

神紋:亀甲左三つ巴

祭神:天事代主命,高皇産霊命,飛鳥神奈備三日女命,大物主命

例祭日:8月18-20日

最寄の交通機関:





飛鳥坐神社は奈良県明日香村の飛鳥寺や蘇我入鹿首塚がある東側の鳥形山に鎮座する。

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「参道入口、左手にあるのが飛鳥井、その先に社務所がある」

創建年代や当時の鎮座地などは不詳で、『出雲國造神賀詞』に「賀夜奈流美命ノ御魂ヲ飛鳥ノ神奈備ニ坐テ皇孫命ノ近守神ト貢置」とあり、大国主神が皇室の近き守護神として、賀夜奈流美命の神霊を飛鳥の神奈備に奉斎したとある。

国史における一番最初のものは『日本書紀』天武天皇の御世であった朱鳥元年(686年)7月5日の条に「幣帛を紀伊国の国懸神・飛鳥の四社・住吉大社にたてまつられた(奉幣於居紀伊国国懸神飛鳥四社住吉大社)」とある。ちょうどこの年の9月に天武天皇が崩御しており、病気平癒の祈願として幣帛が奉られた。

また諸説あるものの平安時代に編纂されたという『日本紀略』によれば、天長6年(829年)に神託により現在の鳥形山へ遷座したという。

『三代実録』には清和天皇の御世である貞観元年(859年)9月8日の条に「八日庚申、(中略)飛鳥神、飛鳥山口神(中略)に使を遣りて幣を奉りき。風雨の為に祈りしなり。(飛鳥神(中略)等遣使奉幣為風雨祈)」とある。

延長5年(927年)に全国の官社をまとめた一覧である『延喜式神名帳』には大和國高市郡 飛鳥坐神社四座として名神大社に列格され月次・相嘗・新嘗の奉幣を受け、現在は摂社として鎮座している飛鳥山口神社も飛鳥山口坐神社として大社に列格され月次・新嘗の奉幣を受けていた。

享保10年(1725年)には火災により社殿の大半を焼失し、天明元年(1781年)に高取藩8代藩主・植村家利により再建された。

現在の社殿は平成13年(2001年)に上記の江戸時代に再建された社殿が老朽化してきたことから、吉野の丹生川上神社上社が大滝ダム建設に伴い遷座する際に、旧社殿を移築したもの。

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「階段を登った突き当りにある力石」

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「拝殿」

拝殿や神楽殿からさらに奥に進むと左手に「むすびの神石」があります。

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「むすびの神石」

いわゆる陰陽石で、おんだ祭の夫婦和合の関係からか境内には沢山の陰陽石がありました。

というか明日香村周辺が結構変わった石が多かったりする。

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道なりに少し進むと左手に摂社や末社が立ち並ぶ一帯があり、その奥に八坂神社と金比羅神社があります。

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「末社・八坂神社と金比羅神社」

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「八坂神社と金比羅神社の間にある陰陽石」

さらに奥に進むと奥の社があります。

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「奥の社《主》天照皇太神,豊受皇太神」

そこから道なりに戻る感じで歩くと境内摂社で式内社の飛鳥山口神社があります。

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「飛鳥山口神社《主》大山津見乃神,久久乃知之神,猿田彦乃神」




・おんだ祭

有名な神事としては、西日本三大奇祭の一つとされる「お田植祭(おんだ祭)」があります。

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「おんだ祭が行われる神楽殿」

元々は摂社である八幡神社の祭事であったそうで、毎年2月第1日曜に行われ、春の始まりに五穀豊穣・子孫繁栄を祈る祭りですが、奇祭と言われる所以は公開セッ…夫婦和合の所作があるからです。

祭の前と後に天狗と翁と牛が先を割った青竹(ササラ)を持って、村中の人の尻をフルスイングでたたきながら暴れまくる。結構な勢いで叩くので叩かれる方は痛いのだが厄祓いになるらしい。

祭は天狗とお多福(プラス翁)のコミカルな「子孫繁栄の神事」(モノは言いようである)があることで知られている神事ですが、いわゆる「田遊び」というもので、田遊びは田を牛で犂を引いて耕す所から始まり、稲作の各作業を演じてその年の豊作を祈願する予祝行事です。

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「天狗(夫)、お多福(妻)、翁(仲人)という役割。画像はイメージ」

中でも田植えの際に用いられる稲の苗を模した松の枝(苗松)や、天狗とお多福の××の事後にアレを「拭いた」紙(福の紙)は、餅まきのような感じで見物客に授与されますが、苗松は田圃の水口に差しておくと農作物に虫が付かず、福の紙は子宝に恵まれるといわれ、それ目的で大勢の参拝客が訪れます。



御朱印には「元伊勢」とあります。

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元伊勢といえば神託によって天照大御神が笠縫邑から各地を経て現在の伊勢神宮へ至るまで各地で祀られていた所を指しますが、この飛鳥坐神社も最初に祀られていた笠縫邑の伝承地の一つで元伊勢と称されていました。

自分にとって人生一番最初に参拝した神社でもあるので思い入れが深いのですが、参拝したのがおんだ祭が行われた一週間後だったので、あと一週間早く来ていればと後悔した記憶があります。



試験艦『あすか』

海上自衛隊の試験艦「あすか」の艦内神社には飛鳥坐神社の神札が奉斎されています。

帝国海軍時代から数えると試験艦「あすか」は2代目で、命名基準として名称旧跡から採られているので現在の試験艦あすかと同じ。

初代「飛鳥」は元は中国海軍の砲艦「永建」(ユンチュン)。大正4年(1915年)に上海の江南造船所で建造され、昭和12年(1937年)の日華事変の際に上海で修理中の所を日本軍の爆撃で擱座着底。日本軍が上海を占領後に浮揚・修理して特設水雷砲艦「飛鳥」として就役させた。

昭和16年(1941年)12月8日の太平洋戦争開戦初日に上海で「出雲」「勢多」「熱海」と共同で英国海軍砲艦「ペトレル」の撃沈に参加。

昭和20年(1945年)に対空哨戒艦となったが、5月7日に黄浦江でB-29の爆撃を受けて沈没した。


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「試験艦 あすか」 (ASE-6102) [海上自衛隊 写真ギャラリーより引用]

2代目の「あすか」は、自衛隊の技本で開発された艤装品を装備し試験運用するためのテストベッド、試験艦のとして建造された。姉妹艦は無い。

見た目の違いは、他の戦闘艦と比較して鋭く突き出た艦首、そして艦上構造物の上の、例えて言うなら修験者が額につける頭襟(ときん)のような形をしたフェイズドアレイレーダー(射撃指揮装置3型(FCS-3))である。

「↓頭襟はこんなの」
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堺港に試験艦「あすか」入港の際など乗組員が艦名の由来となっている飛鳥坐神社に参拝するのが恒例となっているようです。


計画:平成4年度計画
発注:1992年
起工:1993年4月21日 住友重機械工業浦賀造船所
進水:1994年6月21日
就役:1995年3月22日
排水量:基準 4,250トン、満載 6,200トン
全長:151.0m
全幅:17.3m
深さ:10.0m
吃水:5.0m
機関出力:43,000PS
速力:27ノット
乗員:70名+試験要員100名
兵装:Mk.41mod.17 VLS×8セル、3連装短魚雷発射管×1基
艦載機:ヘリコプター1機搭載可能

金剛山葛木神社 (奈良県御所市)

葛木神社 (かつらきじんじゃ)




旧村社、艦内奉斎神社(護衛艦こんごう)

旧国郡:大和國葛上郡

神紋:菊水

祭神:[主祭神]葛木一言主大神
  :[配祀]建角身命,大山祇命,豊受比売命,素盞嗚命,大国主神,少彦名神,玉依比売命,健御名方富命,後醍醐天皇,護良親王,楠木正成,楠木正行

例祭日:7月7日

最寄の交通機関:




葛木神社は奈良県西部の金剛山山頂に鎮座する神社。

金剛山の山頂一帯は県境ではなくギリギリ奈良県に属しているものの、金剛山へのアクセスは大阪府側からの金剛山ロープウェイからが一番アクセスしやすい。

というわけで、今回は大阪府千早赤阪村の金剛山ロープウェイを利用させていただくことにした。

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麓のロープウェイ千早駅の下にある駐車場に車を停め、千早駅まで徒歩10分程、そこからロープウェイで金剛山駅まで所要時間6分、高低差267mの空中散歩。

ちなみにロープウェイの料金は往復で大人1340円、子供(小学生以下)720円。平日は30分おき、日曜祝日は15分おきの運航。


金剛山駅に到着するとそこからは徒歩での登山となる。

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上の地図を見ると、右下のロープウェイからは東側ルートと西側ルートがあり、距離的には西側ルート、歩きやすいのは東側という感じになっており、葛木神社には東側ルートが若干近いのと一の鳥居が東側ルートにある。

ただ葛木神社の御朱印は転法輪寺近くの山頂売店で頂く形になるので結局は転法輪寺まで行くことになる。

というわけで自分は西ルートから右回りで戻ってくることにしました。

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さて、当日はにわか雨と霧であまり天候が良くなく、10月で山頂は10度という肌寒い気温でした。

西ルートは少々凸凹として雨が降ってると踏み固められた土の道で若干滑りやすい感じです。

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「葛城家御廟所」

途中、葛城家御廟所を通り過ぎ、大体ロープウェイから25分くらいの道のりで転法輪寺に到着します。

ここで転法輪寺に参拝と御朱印、そして山頂売店で葛木神社の御朱印を頂きました。

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少し休んでから、葛木神社へ。

途中、参道沿いにある夫婦杉や宝剣塔、福石があります。

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「夫婦杉」

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「宝剣塔(左)と福石(右)」

その先、転法輪寺からは歩いて3分ほどで葛木神社に到着します。

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「石段(石段を登らなくても左手の転法輪寺側の坂道から登れる)」

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「拝殿・本殿」

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「社号標」

この葛木神社裏の禁足地が金剛山山頂(1,125m)となります。

昔は葛城山または高天山(たかまやま)とも呼ばれ、『日本書紀』の神武天皇の条では「高尾張邑に土蜘蛛がいて、その人態は、背丈が短く、手足が長かった。侏儒と似ていた。皇軍は葛の網を作って、覆い捕えてこれを殺した。そこでその邑を葛城とした。」という事に由来しています。(紀元前662年)。

天智天皇4年(665年)、修験道の開祖とされる役小角が16才の時、この山に登り霊気を感得し長い修行の後、金剛山頂上に法起菩薩を御本尊とする金剛山転法輪寺を建立し、役小角の祖神であった一言主神を祀る葛木神社を鎮守としてあわせ祀ったのが始まりとされています。

以後、真言密教の霊場として信仰を集め転法輪寺の山号である「金剛山」が略称のように使われ葛城山脈中の最高峰を指す名称になったとも言われています。

鎌倉時代末期には、一帯を治めていた楠木正成が転法輪寺の勢力を利用し、500の寡兵で幕府軍5万の大軍を寄せつけず、転法輪寺のすぐ近くに位置する国見城が千早城の背後の抑えとして重要な役割をしていました。

明治元年には神仏分離の憂き目に遭い廃寺となっていたのを、昭和37年に復興し現在に至ります。


境内右手には祓戸社をはじめとする末社十三社があります。

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「末社十三社(右が祓戸社)」

葛木神社の石段を降りたすぐ先には矢刺神社が鎮座しています。


・矢刺神社

葛木神社摂社

祭神:雄略天皇

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「矢刺神社」

『日本書紀』によれば、雄略天皇4年(460年)2月に、雄略天皇が狩に御登山され葛木一言主神と鹿狩を楽しみ、翌5年(461年)2月に再び狩りに来られた際には天皇に食いつこうとした猪を弓で刺し、踏み殺されたという記紀ゆかりの場所で、鎮座する矢刺神社には祭神として雄略天皇が祀られています。


矢刺神社からそのまま表参道を下って行くと、道の両側に立つ仁王杉、更に進むと一の鳥居がありロープウェイ方面と奈良県御所市側に下っていく分岐があります。

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「仁王杉」

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「一の鳥居」


・護衛艦「こんごう」

海上自衛隊の護衛艦「こんごう」はこの金剛山が艦名の由来となっていて艦内神社には葛木神社の御分霊が奉斎されており、こんごう乗組員の参拝もありました。

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「こんごう」は日本の海上自衛隊に配備された初のイージス艦で、「こんごう」「きりしま」「みょうこう」「ちょうかい」からなる「こんごう型」のネームシップでもある。

ちなみに護衛艦「こんごう」は3代目で、初代は明治10年(1877年)に進水したコルベット艦「金剛」。巡洋戦艦として明治44年(1911年)にイギリスで建造された戦艦「金剛」は2代目。

2代目の金剛には千早赤阪村の建水分神社の御分霊が祀られていました。

市の渡稲荷神社 (北海道北斗市)

市の渡稲荷神社 (いちのわたりいなりじんじゃ)




矢不来天満宮 末社

祭神:倉稲魂命

例祭日:9月12日(上磯町歴史散歩)、10月11日(神社本庁『平成祭データCD』)

最寄の交通機関:JR江差線「茂辺地駅」下車、徒歩25分






市の渡稲荷神社は北海道南部、北斗市の茂辺地地区から厚沢部町館へ抜ける道道29号線を2.6kmほど山側に向かった場所にある。

途中、茂辺地川を渡る橋があり、そこから市ノ渡になる。恐らく茂辺地川を遡って最初に川を渡る場所だったことから一ノ渡と名前がついてそれが市ノ渡になったのだろうと思う。

周囲は田園地帯が広がっていて、更に遡ると北海道新幹線が横切り、更に進むと湯の沢冷泉の入口や盤の沢、そして北斗市と厚沢部町の境界になっている梅漬峠、そして松前藩の最後の城となった館城跡がある厚沢部町館に抜ける。(現在土砂崩れの恐れのため通行止め)

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上磯地方史研究会が刊行した『上磯町歴史散歩(改訂版)』の「市の渡稲荷神社」の項目によれば

 市の渡は茂辺地地区で農業関係者が多く、一つの集落をなし、神社尊崇の念も厚く、六人の役員が中心になり維持管理に当たっている。祭典日は九月十二日に指定し、例祭と大祭に分けている。大祭といってもその年の収穫によってはいわば盛大になるお祭りである。
 昔といっても明治の末期頃、茂辺地川口付近(二二八号線隧道、現トンネルのあるところ)の山添えには大きな杉が立ちならび、その一部に平坦な地があり、そこに祠があった。そして、お稲荷さんのご神体が祀られていた。そのほかにもエビス様といわれたお堂があったと聞く。永年の風雨に晒されていたんだので、矢不来の天満宮にお移しお祀りしていたものであったが、戦後になってから矢不来住民と市の渡住民の中から御神体の移設の問題が出て、お稲荷さんは農業の神ということで話し合いがつき、市の渡に神社を建て移設され、市の渡神社の御神体となった。そのため、天満宮の末社として登録されている。
(矢不来天満宮宮司三影慶三氏の談による)

上に書かれている文は昭和61年当時のものなので補足すると、茂辺地川河口にあったトンネルはもう撤去されています。

茂辺地川河口の右側には山の先が今よりもっと海側に突き出ていて、ここには長さ95mの茂辺地トンネルがありました。しかし幅が6mと狭く漏水など老朽化も進んでいたことから、平成12年に撤去されています。



神社の創建は昭和25年(1950年)6月吉日と『上磯町歴史散歩(改訂版)』には書かれています。

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「正一位稲荷大明神」

社殿左側の正一位稲荷大明神の碑に刻まれている日付は昭和5年(1930年)9月10日とあるが、この場所に元々祀られていたのか矢不来天満宮から移されたものかは不明。

ちなみに、正一位稲荷大明神の右側に変わった形の石があったのが気になった。

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葛登支稲荷神社 (北海道北斗市)

葛登支稲荷神社 (かっとしいなりじんじゃ)




神紋:

祭神:倉稲魂命

例祭日:7月10日

最寄の交通機関:JR江差線「渡島当別駅」下車、徒歩30分、函館バス小谷地系統「灯台入口」下車、徒歩1分






函館から国道228号線を松前方面へ向かうと、茂辺地を過ぎ2km程の葛登支岬灯台の手前にペンションがある。

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葛登支稲荷神社はこのペンションに入る道の先に鎮座する。

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元々は個人で祀っていた小さい祠で、現在の神社も神社と言うよりかは祠という感じの大きさではあります。

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函館から来るまで約四〇分、木古内に向かって海岸線を走る。函館湾は湖のように静かな佇まいを見せていたかと思うと、葛登支の岬をかわすと、白い波が牙を剥くような時化であったりする。港に出入りする連絡船やフェリーが函館山を背景にして行き交う景色は、絵画のように美しい。その葛登支灯台の少し手前に、丘を削り取ったような台地が道の右手にある。気を付けないと見逃してしまうが、杉の木が五、六木生えている。その根元に、小さな古びた祠がある。ヤマゼンの稲荷様だ。

上磯の山本多五右衛門という網元が、茂辺地の日方泊に漁場を開いたのは明治の中頃らしい。ここの漁場での漁は余りパッとせず、葛登支の沖に移した。番屋が建っていた所は、函館ドックがつくられたとき、当別から石垣の石を切り出したが、石垣の裏に埋め込む土砂を取り、川崎船で運び出した跡地だが、この時、作業中に山が崩れ、何人かの犠牲者が出たため、供養のために塚を建てたものだという。

時代は変わり、多五右衛門から何人か経営者が変わり、昭和に入って、函館のヤマゼン・高村善太郎となった。この人は魚の行商をしながら財をなし、その資金を基に漁場の開発を手がけ成功したわけだが、これには富山県から広浜貞次郎という船頭を迎え、従来の漁法にない新しい建網漁法を導入したという。しかし、広浜式漁法を取り入れるまでには、網元と船頭との間に激しい議論と反目があり、遂に網元が折れ、漁場での最大の行事、網下ろしの日を迎えた。もし、自分の開発した漁法が成らず魚に逃げられたなら?船頭は自分の家に伝わる龍神様に願をかけ、初漁に挑んだ。なんという好運か、天は無名の船頭に味方したのだ。海峡中の魚族が一度に押し寄せ大量に沸いた。新しい番屋も建ち、起こし船も建造された。船頭が願主となり、茂辺地の磯谷雄次郎が船材を集めて造ったのがヤマゼンの稲荷様だという。

歳月は移り、番屋も無く、漁場も無く、ひとり稲荷様だけが朽ちて残った。


葛登支稲荷神社の由来
 明治の中頃、上磯の網元山本多五右衛門が茂辺地の漁場を当別の葛登支沖に移した。昭和になって漁場経営者が山善(屋号)高村善太郎に替わりました。高村は屋号を(ヤマゼン)といった。
 漁場を富山県出身の広浜貞次郎船頭にまかせた。貞次郎は新しい建網漁法を導入し大漁にわいた。
 信仰心の厚い貞次郎が願主となり、茂辺地の磯谷雄次郎が船材で祠を建立し、魚場の安泰を祈願しました。地元民は網元の屋号で「ヤマゼンの稲荷様」と呼んだが、長年無人状態ですっかり朽ち果てたのを哀しんだ新地主の工藤忠孝が平成4年、上磯地方史研究会とたずさえ現在地に遷宮修復しました。毎年7月10日、葛登支稲荷神社奉賛会により祭礼が挙行されています。
 また、三木露風の歌碑が建立されています。
平成23年3月 北斗市教育委員会


住所的に言えばギリギリ茂辺地に属している場所ではありますが、すぐ近くに葛登支岬灯台があり、隣の当別には日本で最初の修道院であるトラピスト修道院(灯台の聖母トラピスト大修道院)があります。

「夕やけこやけの赤とんぼ」で始まる童謡『赤とんぼ』の作詞をした三木露風がこの当別の地に滞在し、この地で故郷の情景を思い浮かべながら『赤とんぼ』の詞を書いたと言われています。

そのトラピスト修道院に在住していた頃に「トラピスト歌集」に収められている葛登支岬灯台を詠んだ歌碑が葛登支稲荷神社にあります。


「はるかなる 岬の上に立ちにける 白き燈台 日に輝けり」  三木露風

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「三木露風歌碑」

この三木露風の歌碑の建立を始め、朽ちていくばかりだった当別の寿楽園の再整備、そして葛登支稲荷神社の再建に尽力されたのが、神社前にあるペンションを経営されていた工藤忠孝氏でありました。

ペンションに併設されている喫茶店内部に工藤忠孝氏の説明文がありましたのでここに載せておきます。

工藤忠孝氏をたゝえる
 大正四年十一月二日、青森県東津軽郡蟹田町字小国の代々造材業を営む工藤家に生まれ十六才で祖父や父と共に樺太で林業に従事した。青森商業高校を卒業後、帝国陸軍に入隊し大陸に転戦、負傷にめげず陸軍伍長で終戦を迎えた。今日に至る氏の事業の発展には実にこの戦友達の尽力が大きかったと云う。
 昭和五十二年商用で来町、明治期の文豪島崎藤村に係わる函館の豪商秦貞三郎氏が造園した寿楽園の荒廃を嘆き、その復興に着手した。
 十有余年の歳月と私費を注ぎ込み、往時の名園を蘇らせた功績は万人の賞賛を浴びた。その後、共和蠅琉豬錣発生、断腸の思いで寿楽園を去り、当所に列車ペンションききょうを開業したおり、老朽寸前の稲荷堂を上磯地方史研究会と連携して再建し葛登支岬稲荷奉賛会を設立し例祭を挙行して来たが平成十五年一月二十三日、志半ばにして病没した(行年八十八才)。
 氏は生前、三木露風の歌碑を建立する夢を持ち続けていた。有志相集い氏の遺志を敬重しこゝに石碑を建立した。
平成十五年七月吉日
発起人 葛登支稲荷奉賛会 会長 加藤哲恵
文 選 上磯地方史研究会 会長 落合治彦

平成26年に行われた例祭に参列させていただきました。

石狩八幡神社 (北海道石狩市)

石狩八幡神社 (いしかりはちまんじんじゃ)




旧郷社、艦内奉斎神社(護衛艦いしかり)

旧国郡:石狩國石狩郡

神紋:右三つ巴

祭神:[主祭神]誉田別命
  :[配祀]倉稲魂命
  :[合祀]伊波比主命,大国魂神,大那牟遅神,少彦名神

例祭日:9月14、15日

最寄の交通機関:





石狩八幡神社は札幌の北西部の石狩市の石狩川河口近くにある神社。

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石狩八幡神社は安政5年(1858年)に箱館総社八幡宮の末社として、当時の箱館奉行所に設立を願い出て認められました。

蝦夷地総鎮守として現在地の対岸である、石狩川右岸(現・八幡町)に建立されましたが、町の中心が本町地域に移ったため明治7年(1874年)に現在地へ遷座されました。

明治8年(1875年)には石狩郡の郷社となり、大正4年(1915年)には神饌幣帛料供進神社となりました。

祭神の誉田別命のほかに、幕府石狩詰役所在勤の荒井金助が勧請した稲荷大神も祀られています。

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現在の本殿は明治21年(1888年)の建築。鳥居は元々は弁天社の文化年間に建立された鳥居がそのまま使われている。

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「扁額(出雲国造家・出雲大社大宮司の千家尊愛による揮毫)」

境内には、木戸孝允が兵部省石狩役所を主宰していた井上弥吉に依頼されて書いた書「文武一徳」「肇域四方」を刻んだ御神燈軸石も残されています。

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「御神燈軸石」

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・護衛艦『いしかり』

海上自衛隊の護衛艦「いしかり」の艦内には石狩八幡神社の御分霊が祀られていました。

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護衛艦「いしかり」(DE-226)は乙型警備艦(小型護衛艦)として建造された。同型艦は無い。

三井造船玉野事業所で昭和55年(1980年)3月18日進水、昭和56年(1981年)3月28日就役。

海上自衛隊の護衛艦としては初めてハープーンを装備した艦で、就役後は大湊地方隊・第32護衛隊に編入され、昭和58年に発生した大韓航空機撃墜事件の機体捜索や、有珠山噴火に伴う災害派遣準備などに従事した。

2007年10月17日、除籍。

起工:昭和55年(1980)3月18日 三井造船玉野事業所
竣工:昭和56年(1981)3月28日
排水量:1,290トン
全長:85.0m
全幅:10.6m
速力:25ノット
兵装:62口径76mm速射砲×1基、ハープーンSSM4連装発射筒×2基、71式ボフォースロケットランチャー×1基、68式324mm3連装短魚雷発射管×2基
除籍:平成19年(2007)10月17日


艦名の由来となった石狩川は総延長268km、北海道で最長の河川で、国内では信濃川・利根川に次いで第3位の長さ、流域面積では利根川に次いで国内2位の大河です。

大雪山の南東、上川町と上士幌町との境界にある石狩岳の西側を源とし、ここから旭川市のある上川盆地から石狩平野を経て石狩市で石狩湾へと注ぐ。

ちなみに「いしかり」の後に就役する「ゆうばり」「ちとせ」の由来となっている夕張川と千歳川はこの石狩川に流れ込む石狩川水系の河川です。

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「石狩川(河口の石狩灯台付近より)」

「いしかり」は石狩市の石狩湾新港に寄港したこともありますが、御分霊が祀られたのは「いしかり」が小樽港に入港した際に奉斎したとのこと。

最初は小樽港入港時など艦長以下士官や水兵も参拝に来ていたものの、石狩湾新港などで艦内の一般公開が行われるようになってからはそちらに人員を割かなければいけないため士官のみが参拝に来ていたという。

「いしかり」ゆかりの品としてはロープワークの額(社務所内に掲示)と退役時に使用していた軍艦旗2旒のうち1旒が奉納。軍艦旗には艦長のサインが入っている。(実際に拝見・撮影させていただきました)

他に現存する艤装品として、石狩八幡神社の前の通りを南西へ向かい突き当たった場所の左側にある「いしかり砂丘の風資料館」横に「いしかり」の主錨が屋外展示されている。

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これは護衛艦「いしかり」の退役に伴い平成20年(2008年)10月17日に)に設置されたもの。

実は船員退職しております

このブログでは神社やお寺の記事ばかりにしてほとんど手をかけていなかったんですが、とりあえず近況報告として、3年間働いた船員の仕事を退職しました。

地元にこだわるつもりはなく色々仕事を探してはいるのですが、なかなかこれといったやりたい仕事が無いというのが実情ですね。

金剛山葛木神社 (奈良県御所市)

葛木神社 (かつらきじんじゃ)




旧村社、艦内奉斎神社(護衛艦こんごう)

旧国郡:大和國葛上郡

神紋:菊水

祭神:[主祭神]葛木一言主大神
  :[配祀]建角身命,大山祇命,豊受比売命,素盞嗚命,大国主神,少彦名神,玉依比売命,健御名方富命,後醍醐天皇,護良親王,楠木正成,楠木正行

例祭日:7月7日

最寄の交通機関:




葛木神社は奈良県西部の金剛山山頂に鎮座する神社。

金剛山の山頂一帯は県境ではなくギリギリ奈良県に属しているものの、金剛山へのアクセスは大阪府側からの金剛山ロープウェイからが一番アクセスしやすい。

というわけで、今回は大阪府千早赤阪村の金剛山ロープウェイを利用させていただくことにした。

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麓のロープウェイ千早駅の下にある駐車場に車を停め、千早駅まで徒歩10分程、そこからロープウェイで金剛山駅まで所要時間6分、高低差267mの空中散歩。

ちなみにロープウェイの料金は往復で大人1340円、子供(小学生以下)720円。平日は30分おき、日曜祝日は15分おきの運航。


金剛山駅に到着するとそこからは徒歩での登山となる。

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上の地図を見ると、右下のロープウェイからは東側ルートと西側ルートがあり、距離的には西側ルート、歩きやすいのは東側という感じになっており、葛木神社には東側ルートが若干近いのと一の鳥居が東側ルートにある。

ただ葛木神社の御朱印は転法輪寺近くの山頂売店で頂く形になるので結局は転法輪寺まで行くことになる。

というわけで自分は西ルートから右回りで戻ってくることにしました。

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さて、当日はにわか雨と霧であまり天候が良くなく、10月で山頂は10度という肌寒い気温でした。

西ルートは少々凸凹として雨が降ってると踏み固められた土の道で若干滑りやすい感じです。

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「葛城家御廟所」

途中、葛城家御廟所を通り過ぎ、大体ロープウェイから25分くらいの道のりで転法輪寺に到着します。

ここで転法輪寺に参拝と御朱印、そして山頂売店で葛木神社の御朱印を頂きました。

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少し休んでから、葛木神社へ。

途中、参道沿いにある夫婦杉や宝剣塔、福石があります。

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「夫婦杉」

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「宝剣塔(左)と福石(右)」

その先、転法輪寺からは歩いて3分ほどで葛木神社に到着します。

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「石段(石段を登らなくても左手の転法輪寺側の坂道から登れる)」

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「拝殿・本殿」

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「社号標」

この葛木神社裏の禁足地が金剛山山頂(1,125m)となります。

昔は葛城山または高天山(たかまやま)とも呼ばれ、『日本書紀』の神武天皇の条では「高尾張邑に土蜘蛛がいて、その人態は、背丈が短く、手足が長かった。侏儒と似ていた。皇軍は葛の網を作って、覆い捕えてこれを殺した。そこでその邑を葛城とした。」という事に由来しています。(紀元前662年)。

天智天皇4年(665年)、修験道の開祖とされる役小角が16才の時、この山に登り霊気を感得し長い修行の後、金剛山頂上に法起菩薩を御本尊とする金剛山転法輪寺を建立し、役小角の祖神であった一言主神を祀る葛木神社を鎮守としてあわせ祀ったのが始まりとされています。

以後、真言密教の霊場として信仰を集め転法輪寺の山号である「金剛山」が略称のように使われ葛城山脈中の最高峰を指す名称になったとも言われています。

鎌倉時代末期には、一帯を治めていた楠木正成が転法輪寺の勢力を利用し、500の寡兵で幕府軍5万の大軍を寄せつけず、転法輪寺のすぐ近くに位置する国見城が千早城の背後の抑えとして重要な役割をしていました。

明治元年には神仏分離の憂き目に遭い廃寺となっていたのを、昭和37年に復興し現在に至ります。

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「葛木神社・御朱印(金剛山山頂売店でいただける)」



境内右手には祓戸社をはじめとする末社十三社があります。

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「末社十三社(右が祓戸社)」

葛木神社の石段を降りたすぐ先には矢刺神社が鎮座しています。


・矢刺神社

葛木神社摂社

祭神:雄略天皇

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「矢刺神社」

『日本書紀』によれば、雄略天皇4年(460年)2月に、雄略天皇が狩に御登山され葛木一言主神と鹿狩を楽しみ、翌5年(461年)2月に再び狩りに来られた際には天皇に食いつこうとした猪を弓で刺し、踏み殺されたという記紀ゆかりの場所で、鎮座する矢刺神社には祭神として雄略天皇が祀られています。


矢刺神社からそのまま表参道を下って行くと、道の両側に立つ仁王杉、更に進むと一の鳥居がありロープウェイ方面と奈良県御所市側に下っていく分岐があります。

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「仁王杉」

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「一の鳥居」


・護衛艦「こんごう」

海上自衛隊の護衛艦「こんごう」はこの金剛山が艦名の由来となっていて艦内神社には葛木神社の御分霊が奉斎されており、こんごう乗組員の参拝もありました。

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「こんごう」は日本の海上自衛隊に配備された初のイージス艦で、「こんごう」「きりしま」「みょうこう」「ちょうかい」からなる「こんごう型」のネームシップでもある。

ちなみに護衛艦「こんごう」は3代目で、初代は明治10年(1877年)に進水したコルベット艦「金剛」。巡洋戦艦として明治44年(1911年)にイギリスで建造された戦艦「金剛」は2代目。

2代目の金剛には千早赤阪村の建水分神社の御分霊が祀られていました。

関山神社 (新潟県妙高市)

関山神社 (せきやまじんじゃ)



住所:新潟県妙高市関山4804番地 (E138°13'00" N36°55'50" )

旧県社、艦内奉斎神社(巡洋艦「妙高」、護衛艦「みょうこう」)

延喜式内社:越後國頸城郡 大神社

神紋:三つ巴

祭神:国常立尊,伊弉冊尊,素盞嗚尊

例祭日:7月18日

最寄の交通機関:JR信越本線「関山駅」下車、徒歩15分






関山神社は妙高山の東側、新潟県妙高市関山に鎮座する神社。

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関山神社の鎮座する妙高市関山は、直江津から長野へ抜ける北国街道が通っており、神社も旧北国街道沿いに妙高山を背にして建てられています。

かつて関山は北国街道の宿場町・関山宿として栄えていました。

その旧北国街道に面した関山神社参道入口の脇には、社号標と明治天皇駐輩碑が建っています。

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「社号標」

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「明治天皇駐輩碑」

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「社殿」

かつて妙高山は裸形上人の開山による密教の山で、この関山神社も仏教色が濃く、現在では祭神を国常立尊・伊弉冉尊・素盞鳴尊となっているが、神仏習合していた頃はそれぞれ、聖観世音菩薩・十一面観世音菩薩・文珠菩薩とされ『妙高山村関山三社大権現』と称されていた。

和銅元年(708年)、妙高山麓の関山村に里宮として勧請された。

嵯峨天皇の御代(810年)に弘法大師空海が、諸国廻歴の折りその神威を観窺し、帰京後帝へ奏上し、壮麗なる社殿を再建する。更に僧坊72区を数えるほどの隆盛ぶりだったと言われています。

僧坊はその後、天正10年(1582年)に織田信長の焼き討ちに遭い衰退の一途をたどりますが、江戸時代になり、俊海法印が天海上人を通じ、関山霊社を中興せんことを徳川幕府へ懇願し、家康公の命にて大久保石見守が境内を検分の上、社領100石御朱印を下し、幕府の支援により天台宗の宝蔵院という寺院が再興しかつての祭礼も復活しました。

現在の社殿は、文化5年(1808年)の建築。

明治になり、神仏混合を禁じられた為、明治元年(1868年)10月18日に現在の「関山神社」と改称する。

昭和3年(1928年)10月、昇格申請し、昭和6年7月13日県社となりました。

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「金毘羅堂」

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「神輿殿」

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「妙高堂」

境内には立派な社務所がありますが神職常駐の神社ではないらしく上越市板倉区東山寺に鎮座する日吉神社が本務社とのこと。

というわけで、御朱印は頂けませんでした。




・重巡洋艦「妙高」と護衛艦「みょうこう」

境内の右手には白い砲弾が目印の記念碑が建っていますが、これが「軍艦妙高記念碑」です。

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「軍艦妙高記念碑」

帝国海軍の巡洋艦「妙高」の艦内神社には関山神社の御分霊が祀られていました。

碑文には、

帝國軍艦妙高ハ其守護神トシテ昭和五年十月十日當社ノ御神體ヲ分身奉祀セリ茲ニ之ヲ勒ス

と書かれています。


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「重巡洋艦「妙高」(昭和20年9月 シンガポール・セレター軍港)」

「妙高」は旧日本海軍の重巡洋艦。「妙高」「那智」「足柄」「羽黒」の4隻からなる妙高型重巡洋艦の1番艦で、艦名は妙高山から命名されました。



艦名は海上自衛隊の護衛艦「みょうこう」にも引き継がれ、艦内神社には同じく関山神社が祀られています。

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「護衛艦「みょうこう」(平成26年8月21日 函館港)」

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「妙高神社(みょうこう艦内神社)」

市の渡稲荷神社 (北海道北斗市)

市の渡稲荷神社 (いちのわたりいなりじんじゃ)




矢不来天満宮 末社

祭神:倉稲魂命

例祭日:9月12日(上磯町歴史散歩)、10月11日(神社本庁『平成祭データCD』)

最寄の交通機関:JR江差線「茂辺地駅」下車、徒歩25分






市の渡稲荷神社は北海道南部、北斗市の茂辺地地区から厚沢部町館へ抜ける道道29号線を2.6kmほど山側に向かった場所にある。

途中、茂辺地川を渡る橋があり、そこから市ノ渡になる。恐らく茂辺地川を遡って最初に川を渡る場所だったことから一ノ渡と名前がついてそれが市ノ渡になったのだろうと思う。

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実は北斗市の合併前には「いちのわたり」という地名がそれぞれ違う場所に2ヶ所あり、亀田郡大野町市渡と上磯郡上磯町市ノ渡という地名があった。字も同じということで旧大野町側は変更せず「市渡」、上磯町側は「茂辺地市ノ渡」として区別しています。


周囲は田園地帯が広がっていて、更に遡ると北海道新幹線が横切り、更に進むと湯の沢冷泉の入口や盤の沢、そして北斗市と厚沢部町の境界になっている梅漬峠、そして松前藩の最後の城となった館城跡がある厚沢部町館に抜ける。(現在土砂崩れの恐れのため通行止め)

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上磯地方史研究会が刊行した『上磯町歴史散歩(改訂版)』の「市の渡稲荷神社」の項目によれば

 市の渡は茂辺地地区で農業関係者が多く、一つの集落をなし、神社尊崇の念も厚く、六人の役員が中心になり維持管理に当たっている。祭典日は九月十二日に指定し、例祭と大祭に分けている。大祭といってもその年の収穫によってはいわば盛大になるお祭りである。
 昔といっても明治の末期頃、茂辺地川口付近(二二八号線隧道、現トンネルのあるところ)の山添えには大きな杉が立ちならび、その一部に平坦な地があり、そこに祠があった。そして、お稲荷さんのご神体が祀られていた。そのほかにもエビス様といわれたお堂があったと聞く。永年の風雨に晒されていたんだので、矢不来の天満宮にお移しお祀りしていたものであったが、戦後になってから矢不来住民と市の渡住民の中から御神体の移設の問題が出て、お稲荷さんは農業の神ということで話し合いがつき、市の渡に神社を建て移設され、市の渡神社の御神体となった。そのため、天満宮の末社として登録されている。
(矢不来天満宮宮司三影慶三氏の談による)

上に書かれている文は昭和61年当時のものなので補足すると、茂辺地川河口にあったトンネルはもう撤去されています。

茂辺地川河口の右側には山の先が今よりもっと海側に突き出ていて、ここには長さ95mの茂辺地トンネルがありました。しかし幅が6mと狭く漏水など老朽化も進んでいたことから、平成12年に撤去されています。



神社の創建は昭和25年(1950年)6月吉日と『上磯町歴史散歩(改訂版)』には書かれています。

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「正一位稲荷大明神」

社殿左側の正一位稲荷大明神の碑に刻まれている日付は昭和5年(1930年)9月10日とあるが、この場所に元々祀られていたのか矢不来天満宮から移されたものかは不明。

ちなみに、正一位稲荷大明神の右側に変わった形の石があったのが気になった。

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葛登支稲荷神社 (北海道北斗市)

葛登支稲荷神社 (かっとしいなりじんじゃ)




神紋:

祭神:倉稲魂命

例祭日:7月10日

最寄の交通機関:JR江差線「渡島当別駅」下車、徒歩30分、函館バス小谷地系統「灯台入口」下車、徒歩1分






函館から国道228号線を松前方面へ向かうと、茂辺地を過ぎ2km程の葛登支岬灯台の手前にペンションがある。

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葛登支稲荷神社はこのペンションに入る道の先に鎮座する。

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元々は個人で祀っていた小さい祠で、現在の神社も神社と言うよりかは祠という感じの大きさではあります。

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函館から来るまで約四〇分、木古内に向かって海岸線を走る。函館湾は湖のように静かな佇まいを見せていたかと思うと、葛登支の岬をかわすと、白い波が牙を剥くような時化であったりする。港に出入りする連絡船やフェリーが函館山を背景にして行き交う景色は、絵画のように美しい。その葛登支灯台の少し手前に、丘を削り取ったような台地が道の右手にある。気を付けないと見逃してしまうが、杉の木が五、六木生えている。その根元に、小さな古びた祠がある。ヤマゼンの稲荷様だ。

上磯の山本多五右衛門という網元が、茂辺地の日方泊に漁場を開いたのは明治の中頃らしい。ここの漁場での漁は余りパッとせず、葛登支の沖に移した。番屋が建っていた所は、函館ドックがつくられたとき、当別から石垣の石を切り出したが、石垣の裏に埋め込む土砂を取り、川崎船で運び出した跡地だが、この時、作業中に山が崩れ、何人かの犠牲者が出たため、供養のために塚を建てたものだという。

時代は変わり、多五右衛門から何人か経営者が変わり、昭和に入って、函館のヤマゼン・高村善太郎となった。この人は魚の行商をしながら財をなし、その資金を基に漁場の開発を手がけ成功したわけだが、これには富山県から広浜貞次郎という船頭を迎え、従来の漁法にない新しい建網漁法を導入したという。しかし、広浜式漁法を取り入れるまでには、網元と船頭との間に激しい議論と反目があり、遂に網元が折れ、漁場での最大の行事、網下ろしの日を迎えた。もし、自分の開発した漁法が成らず魚に逃げられたなら?船頭は自分の家に伝わる龍神様に願をかけ、初漁に挑んだ。なんという好運か、天は無名の船頭に味方したのだ。海峡中の魚族が一度に押し寄せ大量に沸いた。新しい番屋も建ち、起こし船も建造された。船頭が願主となり、茂辺地の磯谷雄次郎が船材を集めて造ったのがヤマゼンの稲荷様だという。

歳月は移り、番屋も無く、漁場も無く、ひとり稲荷様だけが朽ちて残った。

葛登支稲荷神社の由来
 明治の中頃、上磯の網元山本多五右衛門が茂辺地の漁場を当別の葛登支沖に移した。昭和になって漁場経営者が山善(屋号)高村善太郎に替わりました。高村は屋号を(ヤマゼン)といった。
 漁場を富山県出身の広浜貞次郎船頭にまかせた。貞次郎は新しい建網漁法を導入し大漁にわいた。
 信仰心の厚い貞次郎が願主となり、茂辺地の磯谷雄次郎が船材で祠を建立し、魚場の安泰を祈願しました。地元民は網元の屋号で「ヤマゼンの稲荷様」と呼んだが、長年無人状態ですっかり朽ち果てたのを哀しんだ新地主の工藤忠孝が平成4年、上磯地方史研究会とたずさえ現在地に遷宮修復しました。毎年7月10日、葛登支稲荷神社奉賛会により祭礼が挙行されています。
 また、三木露風の歌碑が建立されています。
平成23年3月 北斗市教育委員会


住所的に言えばギリギリ茂辺地に属している場所ではありますが、すぐ近くに葛登支岬灯台があり、隣の当別には日本で最初の修道院であるトラピスト修道院(灯台の聖母トラピスト大修道院)があります。

「夕やけこやけの赤とんぼ」で始まる童謡『赤とんぼ』の作詞をした三木露風がこの当別の地に滞在し、この地で故郷の情景を思い浮かべながら『赤とんぼ』の詞を書いたと言われています。

そのトラピスト修道院に在住していた頃に「トラピスト歌集」に収められている葛登支岬灯台を詠んだ歌碑が葛登支稲荷神社にあります。

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「葛登支岬灯台と葛登支岬」


「はるかなる 岬の上に立ちにける 白き燈台 日に輝けり」  三木露風

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「三木露風歌碑」

この三木露風の歌碑の建立を始め、朽ちていくばかりだった当別の寿楽園の再整備、そして葛登支稲荷神社の再建に尽力されたのが、神社前にあるペンションを経営されていた工藤忠孝氏でありました。

ペンションに併設されている喫茶店内部に工藤忠孝氏の説明文がありましたのでここに載せておきます。

工藤忠孝氏をたゝえる
 大正四年十一月二日、青森県東津軽郡蟹田町字小国の代々造材業を営む工藤家に生まれ十六才で祖父や父と共に樺太で林業に従事した。青森商業高校を卒業後、帝国陸軍に入隊し大陸に転戦、負傷にめげず陸軍伍長で終戦を迎えた。今日に至る氏の事業の発展には実にこの戦友達の尽力が大きかったと云う。
 昭和五十二年商用で来町、明治期の文豪島崎藤村に係わる函館の豪商秦貞三郎氏が造園した寿楽園の荒廃を嘆き、その復興に着手した。
 十有余年の歳月と私費を注ぎ込み、往時の名園を蘇らせた功績は万人の賞賛を浴びた。その後、共和蠅琉豬錣発生、断腸の思いで寿楽園を去り、当所に列車ペンションききょうを開業したおり、老朽寸前の稲荷堂を上磯地方史研究会と連携して再建し葛登支岬稲荷奉賛会を設立し例祭を挙行して来たが平成十五年一月二十三日、志半ばにして病没した(行年八十八才)。
 氏は生前、三木露風の歌碑を建立する夢を持ち続けていた。有志相集い氏の遺志を敬重しこゝに石碑を建立した。
平成十五年七月吉日
発起人 葛登支稲荷奉賛会 会長 加藤哲恵
文 選 上磯地方史研究会 会長 落合治彦

平成26年に行われた例祭に参列させていただきました。

葛登支稲荷神社は七重浜海津見神社の兼務社で、例祭は七重浜海津見神社の宮司さんが奉仕されていました。

ちなみに、葛登支はアイヌ語由来の地名でアッ・ウシ(楡樹・ある処)がカットシになったという。

富川八幡宮 (北海道北斗市)

富川八幡宮 (とみがわはちまんぐう)




旧村社、円空仏

旧国郡:渡島国上磯郡

神紋:左三つ巴

祭神:誉田別尊、木花咲耶姫命

例祭日:7月10日

最寄の交通機関:函館バス「富川会館前」下車、徒歩7分






函館から国道228号線を松前方面へ向かうと、上磯市街を通り、谷好、富川に差し掛かるとそれまで周囲が平野部だったのが目の前に山が迫り、そこから海岸線を通る道が続きます。

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「国道228号線と奥に見えるのが富川八幡宮の鳥居」

その海岸を通る国道と右側の山側に登っていく旧国道の間にあるのが富川八幡宮です。

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「鳥居と石段、そして通称「七曲り」と呼ばれる旧国道」

旧社格は村社で、富川地区(旧・富川村)の鎮守社である。

富川と館野の境、旧国道と228号線の分岐点から百数十段の石段を登り、通称ヤギナイの高台にある。風光明媚な場所で後方には神域にふさわしい林があり、津軽海峡、函館港を一望できる。

神社の起源は宝暦2年(1752年)、村中で勧請再建と記録が残されており、富川村の知行主・蠣崎三弥が武運長久祈願のため館内にあったものを現在地に移したものである。

当時の富川は戸数三十余戸、人口140人余りで、近年、社殿内を調査の際、二体の木造が発見され、一体は円空仏、もう一体は目定作の神像であった。また、ここには御影石製の鳥居があり、向かって右には「奉納白子屋利助」、左に「文政十一年三月吉日、長崎御用船永寿丸積下」の刻字が見られる。

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「階段は200段弱ある」

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「文政11年奉納の石鳥居と両脇に伸びている杉の木」

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「社殿」

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「手水鉢」

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「記念碑」と「改元紀念碑(大正三年十月)」

昔は海岸線の国道は整備されておらず、旧道は富川八幡宮から山に入り、通称「七曲り」と呼ばれるカーブの多い谷沿いに登り、ゴミ処理場のある平坦な高台を抜け、その先にある矢不来で一度海岸に出て矢不来の集落の先から再び山道を登って茂辺地に抜けていました。

福山街道
 箱館(函館市)と福山(松前町)を結ぶ道を「福山街道」と呼びました。江戸時代の有川(現北斗市)は、箱館から約4里の距離で、人馬引継所がおかれ、追分には茶屋が3軒あり食事や休憩地点として賑わいました。
 松前藩の政策上、街道であっても架橋は許されず、渡船がおかれたが「有川の長橋」は許可されていました。
 安政元年(1854)戸切地・三谷・富川・三石・当別・釜谷に駅(後の駅逓)を開設して旅人に役立てました。平坦な箱館から街道もいよいよ険しい峠・山道が始まります。当時の交通は船便や馬が多く利用されたが、旅人は山道を避け、好天の日は海浜の波打ち際を通行したようです。
平成23年3月 北斗市教育委員会

ここは松前藩の置かれていた福山城(松前城)から港町である箱館間の交通の要衝でもあり、箱館戦争では富川八幡宮の裏に大鳥圭介が率いる幕府軍伝習隊が設営した「富川塁」がありました。

この富川塁は函館江差自動車道の建設によってほとんど破壊されてしまっていますが、説明板が旧道沿いに設置されています。



・円空仏

北斗市内には3体の円空仏が現存していますが、その内の1体が富川八幡宮の円空仏です。

富川八幡宮の円空仏は、高さ530mm、幅220mm、厚さ120mm、重さ1.95kg

蛟もう神社 (茨城県北相馬郡利根町)

蛟蝄神社 (こうもうじんじゃ)




旧郷社

延喜式内社:下総國相馬郡 蛟蝄神社(小)

神紋:左三つ巴、五三鬼桐

祭神:[主祭神]弥都波能売命
  :[合祀]波迩夜須毘売命,倉稲魂命,須佐男之命,菅原道真,誉田別命,

例祭日:旧9月14日

最寄の交通機関:常磐線「取手駅」下車、大利根交通バス立崎車庫行き「立木」停留所下車徒歩5分





蛟もう神社は、利根川の北側、茨城県北相馬郡利根町に鎮座する式内社で、通称・文間明神。「門の宮」と「奥の宮」の2社がある。

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「奥の宮参道入口。道をまっすぐ行くと門の宮がある。」

「もう」は特殊漢字の為、パソコンによっては表示されないが、虫へんに網のつくりを合わせた「虫罔」という字で「もう」と読む。

正式には「蛟蝄(みつち)」神社であり、古くは「延喜式神名帳」、最近では昭和37年の「神社名鑑」にも「みつち」と書かれている。

「蛟(みずち)」は水中に棲む龍を指し、祭神も水の神である「ミヅハノメ」(弥都波能売神・罔象女神・水波能売命とも書く)の神を祀る。

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「奥の宮参道石段」


・関東最古の水神を祀る

創建は孝霊天皇3年(西暦前288年)に、現在の門の宮の場所に水の神様の罔象女大神を祀ったのが始まりといわれており、文武天皇2年(698年)、土の神様の埴山姫大神を合祀した。

その後、時期は不詳なものの、水害や民家が近いという理由で社殿を現在の奥の宮に場所に遷座。元の場所にあった社殿は氏子崇敬者の声から取り壊しをせず、御祭神の御魂を分祀し「門の宮」としてお祀りすることになった。

延長5年(927年)に編纂された『延喜式』の「延喜式神名帳」には下総国内の式内社11社の1社として「下総國相馬郡一座小社蛟蝄神社(みつちじんじゃ)」と記載されている。

慶長3年(1598年)8月、布川城主・松平信一(後の土浦藩初代藩主)により増修。同9年3月、将軍・徳川家康が五十石を寄進。

享保元年(1716年)、正一位に列格。

明治4年(1871年)7月、郷社に列格。

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「石鳥居と参道」

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「拝殿と授与所(右)」

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「拝殿」

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「拝殿内部」

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「本殿」

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「奥の宮境内」

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「本殿と拝殿」

史跡案内 蛟蝄神社周辺

 蛟蝄神社は孝霊天皇三年(前二八八)に水神の弥都波能売命、文武天皇二年(六九八)に土神の波邇夜須毘売命をまつったのが、そのはじまりと伝えています。記録にあらわれた最初は、延喜五年(九〇五)に編集を開始した『延喜式』の神名帳で、「相馬郡一座蛟蝄神社」と書かれています。蛟蝄の名は、周囲が流れ海であったころの台地の姿が、水を分けて進む水蛇に似ていたためといわれています。門の宮のある所は、縄文後晩期貝塚(前二五〇〇~前三〇〇)で、そうした古代のありさまをしのばせます。同時にこの貝塚は全国的にみても貴重な遺跡として大切にされています。門の宮の社殿は慶長三年(一五九八)に布川藩主松平信一が再建したという記録と元禄十一年(一六九八)再造営の棟札が残されています。奥の宮は元禄十六年に再建されました。簡素なつくりで、彫刻でかざられた門の宮と対象的な建築物です。蛟もう神社には日本武尊が参拝したという伝説があり、近くに弟橘姫の櫛塚や舟形山があります。また周辺には史跡や伝説が数多く残されています。

昭和五十五年三月 利根町教育委員会
文化財保護審議委員会



奥の宮の東側500mほどの所に笠脱沼という沼がある。

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「笠脱沼」

むかし、大田羅の神(いわゆるダイダラボッチ)がこの地で休憩したときに置いた笠の跡が沼になったのだという。

なお、この笠脱沼の水で、例大祭(ばかまち)の湯立て神事が行われています。その他にも、沼から龍神様が舞い上がって神社のほうに向かわれたという逸話もあり、神社の授与品の「龍神御守」のデザインはこの伝説を図案化したものです。(この龍神御守と神社の御札を頂きました。「龍神御守」や「うまく行く守り」などの御守は蛟蝄神社オリジナルのデザインだとか。)


2014年現在、奥の宮境内は造営中で、写真の拝殿は取り壊され新しい拝殿が建設中。本殿は後方に移築したらしい。

拝殿は老朽化していたのだろうけど味のあるいい拝殿だっただけに残念。新しい拝殿はもう少し大きな拝殿になるようだ。

ちなみに授与所や社務所があるのは奥の宮の方で、御朱印もこちらで頂いた。

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「こうもう」の豪快な字体で気持ちがいい。

奥の宮へのアクセスは車で神社の裏手にある「老人ホームやまなみ園」へ向かい、そのまま老人ホームの駐車場と玄関前を通過して行くと細い交差点にぶつかる。そこを左へ曲がると車を停めるスペースが有り、その先が奥の宮の境内。南側からアクセスは道が細く、すごく鋭角で曲がりきれないくらいのカーブになっているので、老人ホームからのアクセスがベスト。



一方、蛟もう神社・門の宮は、奥の宮から西に700mほど行った所に鎮座する。

社殿の立っている部分が小高い丘のようになっているが、実は立木貝塚という史跡の上に鎮座している。

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「門の宮(立木貝塚)」

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「門の宮・拝殿」

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「門の宮・本殿」

門の宮の拝殿内には「正一位文間大明神」の扁額や、絵馬から飛び出して稲を食べることから手綱を描き加えたら絵馬から出歩くことは無くなったという狩野元信作の「繋ぎ馬図」が奉納されています。

また、門の宮の鎮座している場所は立木貝塚で、拝殿前の地面にはシジミくらいの大きさの貝殻が沢山落ちていました。

利根町指定遺跡 立木貝塚

 この周辺は「立木貝塚」といわれる縄文時代後晩期の遺跡です。
縄文時代には、集落の周りの斜面や窪地などにゴミが捨てられていました。特に海に囲まれていたこの辺りでは貝殻がよく捨てられ、馬の蹄のような形をした「貝塚」として今も残っています。
 この遺跡は、古くから知られておりましたが、正式に学会で紹介されたのは明治二十八年のことです。そのため、当時多くの採集家が小発掘を試み、その出土品は各地に分散しています。学術調査を最初に行ったのは、昭和三十七年の明治大学考古学研究室です。この調査では、縄文時代後期後半から変質し始めた関東地方の文化に、東北地方的な文化の流入が始まったことを証明するなど、相応の成果を納めました。
 そして、この遺跡を全国的に有名にしたのは、土偶、土製耳飾、貝輪、骨角器などの「珍品」といわれる遺物が豊富に出土することでした。特に土偶は、全国でも最多出土遺跡の一つとして知られるほどです。
 土偶は、祭礼や儀式に使われていたという説がありますが、今でも、この遺跡の上に蛟蝄神社が建っているのは歴史の流れを感じさせます。

利根町教育委員会


以下、余談…。

実は蛟もう神社に参拝した理由は『みずのかけら』というPCゲームの影響です。

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というのもゲーム内で登場する神社が「水地神社(みずちじんじゃ)」で祭神が蛟(みずち)。

そういう関係からファンディスクでは蛟もう神社が紹介されており、「蛟」との関係と例大祭の「ばかまち」(ヒロインの名前が「まち」であることから)が取り上げられていました。(背景のモデルは福島県喜多方市の新宮熊野神社)

ちなみにゲーム内で登場する「葉月」という女の子は水神で蛟ということなので弥都波能売命なんですよきっと。

千葉県護国神社 (千葉県千葉市)

千葉縣護國神社 (ちばけんごこくじんじゃ)




旧内務大臣指定護国神社

旧国郡:下総國千葉郡

神紋:丸に桜

祭神:千葉県出身の護国の英霊 57828柱

例祭日:4月10日,10月10日

最寄の交通機関:





千葉縣護國神社は千葉市中央区の千葉公園内に鎮座する護国神社。

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「参道入口」

明治維新から大東亜戦争に至るまでの国事国難に殉ぜられた千葉県出身並びに縁故ある方々の英霊が祀られています。

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「社号標」

創建は明治11年(1878年)1月27日、明治天皇の御聖慮を奉戴し、初代県令・柴原和が発起となり、千葉県庁公園内に「千葉縣招魂社」として創建。戊辰戦争の際に戦死した下総国佐倉藩士・安達盛篤命(安達直治とも)をはじめ16柱を合祀したのをはじめとする。

明治22年(1889年)、千葉神社境内に遷座。昭和12年(1937年)3月、境内の狭さと社殿の老朽がひどいことから、亥鼻山(千葉県千葉市中央区亥鼻1丁目6-1、現在の千葉市郷土資料館)に遷座を決定する。

昭和14年4月、招魂社制度の改正に伴い「千葉縣護國神社」と改称する。

昭和15年7月、社殿の造営に着手。昭和18年3月に社殿竣工。昭和18年4月、一県一社の護國神社として指定される。昭和18年4月19日、鎮座祭を執行する。

昭和20年7月7日、戦災により千葉市の大半焼失の際、社殿炎上する。

昭和21年7月、宗教法人として届出、28年3月認証され、同年5月9日登記する。

昭和21年10月、仮本殿を造営する。

昭和22年4月、「頌徳神社」と改称する。

昭和27年6月、「千葉縣護國神社」に復する。

昭和35年10月、畏くも天皇陛下より終戦十五年の故をもって幣帛料を御下賜あそばされ、幣帛臨時大祭併せて例祭を執行する。

昭和36年7月、遺族の要望にも応え千葉市弁天町地区千葉縣忠霊塔隣地を新境内地(当時国有地)とすることに計画決定する。

昭和41年10月、社殿、廻廊、神門等の造営に着手する。

昭和42年3月、社務所の造営に着手する。

昭和42年5月、社殿、神門等竣工する。

昭和42年8月、社務所竣工する。

昭和42年9月30日、亥鼻山より現境内地に御遷座する。

昭和42年10月1日~3日、特に天皇陛下より幣帛料御下賜あり、三日間に亘り本殿遷座奉祝祭を斎行する。

昭和53年10月10日、御創立百年大祭を献幣使参向のもとに秋季例大祭に併せて斎行する。




昭和48年10月13日、昭和天皇・皇后両陛下御親拝、幣饌料御下賜。

昭和48年10月28日、今上陛下・皇后陛下(当時は皇太子殿下・皇太子妃殿下)御参拝、幣饌料御下賜。

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「神門と社務所(左)」

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「社殿」

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「扁額(靖國神社宮司・筑波藤麿による揮毫)」


神社に隣接して忠霊塔が建っています。

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「千葉県忠霊塔」

千葉県忠霊塔は昭和29年(1954年)4月8日に建てられたもので、護国神社はその後の昭和42年に亥鼻公園から忠霊塔の隣へ遷座しました。

毎年8月15日の全国戦没者追悼式に合わせ忠霊塔の前で千葉県忠霊塔拝礼が行われています。


境内や忠霊塔周辺には他の護国神社と同じように慰霊碑が建っていました。

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「千葉県特攻勇士顕彰碑」

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「支那駐屯歩兵第三聯隊慰霊碑と愛馬慰霊碑」

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「日中戦士鎮魂碑」

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「千葉県出身陸軍少年飛行兵慰霊之碑」

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「モニュメント「大地」」

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護国神社周辺は「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」の舞台にもなっています。

射水神社 (富山県高岡市・越中国一宮)

射水神社 (いみずじんじゃ)




越中國一宮、旧国幣中社、別表神社、艦内奉斎神社(軽巡洋艦「神通」)

延喜式内社:越中國射水郡 射水神社(小)

神紋:八つ花型鏡

祭神:瓊瓊杵尊(二上神)

例祭日:4月23日,9月16日

最寄の交通機関:




射水神社は富山県高岡市の高岡古城公園内に鎮座する神社で、古くは越中国一宮、近代社格では国幣中社、現在は神社本庁の別表神社に指定されている。

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「参道入口」

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「社号標」

創始年代は不明だが、天武天皇3年(674年)正月に奉幣を預かったと『日本書紀』記されている事から(我が家の日本書紀には記載されてないのだが…)、それ以前の創建と言う事になる。(射水神社では鎮座祭の基準を天武天皇3年(674年)にしている。)

射水神社は二上山を神奈備山として、養老年間(714~723)に行基が二上山麓に建てた養老寺に、二上権現と称して祀ったのが二上神の鎮座。(現在の二上射水神社)

祭神である二上神は伊弥頭国造(いみづのくにのみやつこ)の祖神とされる。

国史には度々この二上神が登場し、

『続日本紀』宝亀11年(780年)12月14日、従五位下に叙せられたほか、
『日本後紀』延暦14年(795年)8月18日、従五位上
『続日本後紀』承和7年(840年)9月29日、従四位下から従四位上
『文徳天皇実録』斉衡元年(854年)3月7日、従三位
『日本三代実録』貞観元年(859年)1月27日、正三位に列格。

延長5年(927年)の『延喜式神名帳』では越中国34座の内の一社として列格した。

その後、承平年間や天正年間に兵火により社殿は焼失し一時衰退したが、慶長年間、前田利家が社殿再建と社領および一山を寄進し、国内に命じて初穂米奉納の制を復活し、明治維新まで続いた。

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「扁額」

明治4年(1871年)、国幣中社に列格し、明治8年(1875年)に現在の高岡城本丸跡に遷座した。

明治33年(1900年)6月27日の高岡大火の際に社殿が類焼、明治35年に再建された。

昭和59年(1984年)には「参集殿」が竣工した。

平成27年(2015年)には、御鎮座1340年・御遷座140年の区切りの年に式年大祭が斎行される。



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本当ならば100名城でもある高岡城もゆっくり見れればよかったけれど、この後、高瀬神社、富山市内、雄山神社と移動しなければいけなかったので滞在時間僅か…。

帝国海軍の軽巡洋艦「神通」の艦内神社に御分霊が祀られていたということもあるし、またリベンジしたい。

足羽神社 (福井県福井市)

足羽神社 (あすわじんじゃ)




旧県社

延喜式内社:越前國足羽郡 足羽神社

神紋:三光

祭神:[主祭神]継体天皇,生井神,福井神,綱長井神,阿須波神,波比岐神
  :[合祀]大穴持像石神,事代主命,少彦名命,柿本人麿,耳皇子,武小広国押楯命,宇多天皇,天国排開広庭命,素盞嗚尊

例祭日:5月15日

最寄の交通機関:





足羽神社は福井市街地の南西部、足羽山に鎮座する第26代・継体天皇を祀る神社。

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「参道入口」

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「社号標」

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「拝殿」

足羽神社は越前祖神として信仰をあつめる式内の古社で、継体天皇と座摩五神を祭神とする。

社家・馬来田氏は継体天皇の皇女・馬来田皇女の後裔と伝えられる。

境内の枝垂桜・もみじは市指定の天然記念物である。

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「枝垂桜」

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「(左)足羽宮之碑、(右)天壌無窮碑」

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「(左)継体天皇御世系碑、(右)九頭龍川修治碑」

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「(左)吟道之碑、(右)六地蔵宝塔」

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「神紋『三光』」

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「御朱印」

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「継体天皇像」

鳥取東照宮 (鳥取県鳥取市)

鳥取東照宮 (とっとりとうしょうぐう)




旧県社

旧国郡:因幡國邑美郡

神紋:三つ葉葵

祭神:徳川家康,池田忠継,池田忠雄,池田光仲,池田慶徳

例祭日:4月16,17日

最寄の交通機関:



鳥取東照宮は鳥取県鳥取市の樗谿公園にある東照宮で、東照大権現こと徳川家康の他に鳥取藩主の池田氏を祀る。

近年まで樗谿神社(おうちだにじんじゃ)という難読神社名だったのが昔の因幡東照宮にちなみ鳥取東照宮と改称した。

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「一の鳥居」

車は樗谿公園の駐車場に停めて歩いて向かい、400mほど歩くと一の鳥居、その先に授与所と神門がある。

一の鳥居には現在は「東照宮」と書かれた扁額が掲げられているが、以前は「樗谿神社」と書かれた扁額が掲げられていた。

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「授与所と茶屋(左)と神門(右)」

神門をくぐると左側に鳥取県神社庁が建っている。

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「鳥取県神社庁」

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「参道」

参道を進むと右手に神池、そして随神門がある。

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「神池」

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「随神門」

随神門の先に更に参道、石段を登ると鳥取東照宮の社殿がある。

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「拝殿」

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「本殿」

本殿・幣殿・拝殿・唐門は重要文化財に指定されている。



鳥取東照宮の創建は、鳥取藩主・池田光仲により慶安3年(1650年)に日光東照宮の分霊を勧請し「因幡東照宮」として創建された。

明治7年(1874年)3月に、池田忠継(光仲の伯父)・忠雄(光仲の父)・光仲を合祀し、樗谿神社と改称、県社に列格された。明治11年(1878年)に最後の藩主・池田慶徳を合祀した。

平成23年(2011年)10月、本来の名称が「因幡東照宮」であったとの理由から「鳥取東照宮」に改称した。

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鳥取藩は代々池田恒興の子孫である池田氏が治めていたが、同じ池田氏で転封と入封が2度あったためややこしい。

最初は池田恒興の三男・池田長吉→池田長幸と2代続き、備中松山藩へ転封。

代わりに播磨姫路藩から池田家宗家の池田光政が入封。

最終的に池田輝政の次男で岡山藩主・池田忠継の嫡孫で幼齢で家督を継いだ池田光仲が、池田光政と入れ替わる形で鳥取へ入封し明治まで治めることになった。

ちなみに池田光仲の父・忠雄の生母は徳川家康の次女・督姫で、光仲は家康の曾孫になる。

ついでに言うと、合祀されている4柱のうち池田忠継・池田忠雄の2柱は岡山藩主なので鳥取藩の藩政は執っていない。



・淡幽の井戸

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「探幽の井戸」

樗谿神社には歌は京都青蓮院二十九世門主尊純親王、絵は狩野探幽の手になる三十六歌仙の額と鷹の絵の額がある。慶安三年(一六五〇)四月創建された東照宮(樗谿神社の称は明治七年に定められた)の拝殿を飾るため鳥取藩主池田光仲が青蓮院門跡に所望して、求めたものである。三十六歌仙の額は同年五月八日にできている。(華頂要略、門主傅)
狩野探幽(一六〇二~一六七四)ははやくから徳川家康に厚遇され、家康の没後元和三年(一六一七)より幕府に仕え奥絵師となった。江戸時代の狩野派はこの探幽によって基礎が固まったである。狩野探幽がこの地にきた資料はないが三十六歌仙の額と鷹の絵の額があることから、この井戸を「探幽の井戸」として今に伝えられたものであろう。


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ちなみに「樗谿」という名前の由来については、鳥取市の公式ホームページ(https://www.city.tottori.lg.jp/www/contents/1240472250501/index.html)によれば、

「樗谿」の由来については、古来、樗谿の山中に「王子(寺)」(おうじ)という寺院があったことにより、「王子(寺)谷」(おうじだに)と言われていたとの説と、かつて「大日村」という村落があったことから「大日谷」(おおひだに)と言われていたとの2つの説があります。

「樗谿」の字が当てられるようになったのは、園内にある東照宮が明治時代に「樗谿神社」と改称されてからのようです。

とのこと。
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