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美瑛神社 (北海道上川郡美瑛町)

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美瑛神社 (びえいじんじゃ)




旧村社

神紋:左三つ巴

祭神:天照大神、伊邪奈岐神、伊邪奈美神、家都御子神、大国主神

例祭日:7月25日

最寄の交通機関:JR「美瑛駅」






美瑛神社は、「丘のまち」として有名な北海道上川郡美瑛町に鎮座する神社。

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明治29年4月、和歌山県東牟婁郡那智勝浦町から田仲儀太郎氏を団長とする熊野団体29戸が入植。明治30年、父母を迎えるため郷里に戻った木下四郎により旧官幣大社・熊野坐神社(現・熊野本宮大社)より「家都御子命」の御分霊を受け敷地の楢の大木に小祠を建立。仮の社殿としてお祀りする。

その後、市街地「丸山山頂・憩ケ森」と遷り、明治40年、旧西町に社殿を造営遷座。村名を取り美瑛神社とする。

大正15年1月15日に神社創立許可が下り、大正15年11月15日に無格社、昭和5年6月12日に村社に列格され、同年7月12日に神饌幣帛料供進神社に指定。

昭和43年11月に社殿を造営。平成7年10月11日に西町1丁目より東町4丁目に遷座しました。

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「扁額」

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「賽銭箱の神紋」

神紋は北海道神社庁誌では左三つ巴になっていますが、流れ三つ巴な感じです。

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上は「故田仲儀太郎之碑」、下は「美瑛神社御創祀百年記念」の碑。

冒頭でも書いたように田仲儀太郎氏は美瑛入植の中心となった方です。

現在、美瑛神社の祭事として『那智美瑛火祭り』がありますが、これは田仲儀太郎氏の故郷である和歌山県那智勝浦町であるという繋がりから、那智勝浦町に鎮座する熊野那智大社で行われる日本三大火祭りの一つ「那智の火祭り」を美瑛でも、という事で平成元年(1989)から毎年7月25日に行われています。

また最近では、この美瑛神社はパワースポットとしても注目されています。

観光客で賑わう美瑛駅前周辺より距離は少し離れていますが参拝客は自分が参拝した時も絶えず来ていました。

変わった授与品として、美瑛の丘の景色が刺繍された「丘守り」がありました。

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真山神社 (秋田県男鹿市)

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真山神社 (しんざんじんじゃ)




旧県社

神紋:五本骨扇

祭神:[主祭神]真山大神、天津彦火瓊瓊杵命、武甕槌命
  :[合祀]天照大御神、豊受大神、豊玉毘女神、少彦名神、大山咋神、大名持神、塞神三柱神

例祭日:7月15、16日

最寄の交通機関:





真山神社は秋田県男鹿市に鎮座する神社で、有名な秋田のナマハゲはこの真山神社の神事でもある。



祭神については諸説があり、秋田市の古四王神社と同じ越君阿部氏の祖・大彦命という説や、漢の武帝という説もある。

現在は邇邇藝命・武甕槌命を祀る。(資料によっては真山大神も祭神としてある)



真山神社の創祀は、社伝によれば景行天皇の御代(71-130)に武内宿禰が勅を奉じて北陸地方諸国の視察した折、男鹿島に下向して湧出山(現在の真山)に登り、邇邇藝命・武甕槌命を祀ったことに始まると伝わる。

平安時代には仏教が伝わり貞観年間には慈覚大師円仁によって湧出山を二分し、北を真山、南を本山としたと伝わり、修験道が盛んになり天台僧徒によって比叡山延暦寺守護神の赤山明神と習合された。

南北朝時代になると明徳年間(1390-93)真山別当・赤神山遍照院光飯寺(こうぼうじ)が天台宗から真言宗へ変わり、奥州の豪族・安倍氏・清原氏・藤原氏の庇護の下で修験霊場として隆盛を誇った。

文禄4年(1595)領主・秋田実季は社領163石を寄進し、江戸時代になると国内十二社に指定され、領主・佐竹氏の祈願所にも定められ、久保田藩初代藩主・佐竹義宣は元和年中に社領100石、2代藩主・佐竹義隆は寛永18年(1774)に90石を寄進している。

明治維新に際し、別当の光飯寺は神職となり社名も赤神神社から真山神社と改称。明治5年(1872)郷社、明治14年県社に昇格した。



最初、車道に鳥居があって、しばらく進むと左手に駐車場、右手になまはげ館があり、更に奥に進むと真山神社の駐車場があります。

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最初に見えてくるのが仁王門。

仁王門の前にある手水舎も真冬なので凍りついていました。

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●仁王門

仁王門は江戸時代中期に作られたもので別当であった光飯寺の山門であったものが明治時代より神社の神門となったものです。

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仁王門の上には奉納された包丁が…

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仁王門をくぐると右手に授与所、左手に丸太船があります。

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「右手が授与所」

今回は友人との参拝だったのでゆっくり写真は撮れなかったので少なめ。

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さらに石段を登った先に拝殿があります。


●拝殿

拝殿は昭和34年に造営されたもので変則的な権現造りになっています。

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「真山神社・拝殿」

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「拝殿・扁額」

本殿は真山山頂に鎮座しているのでまだまだ登ることになります。



●柴灯祭

特殊神事として柴灯祭(せどまつり・1月3日)があり、秋田のなまはげとして有名。

正月3日に境内に柴灯を焚き上げ、この火によってあぶられた大餅をお山に鎮座する神に献ずるというもの。

なまはげはこの神の使者「神鬼」の化身といわれ、平安時代の長治年間(1104-1106)より行われてきました。

雪の深々と降る厳寒の宵に斎行されるもので、その年の村内安全・五穀豊穣・大量満足・悪疫除去を祈ります。

特に神鬼に献じられた餅は護摩餅と称されて、災難除去の護符として氏子参詣者に下賜されます。

2月第二金・土・日曜にも「なまはげ柴灯祭り」が神社で行われます。



真山神社では1月と2月になまはげの神事が行われますが、男鹿半島の各家では大晦日の晩に、なまはげ行事が行われます。

なまはげの語源は「ナモミを剥ぐ」という言葉がなまったもので、ナモミとは囲炉裏に近づき過ぎてできる低温やけどの事で、それをはぎ取り、囲炉裏のそばで怠けている人間を戒めるのがなまはげです。


ちなみに授与所にはナマハゲのお面が置いてあり、自由に面を付けることができます。

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右手に包丁、左手に桶を持っていますが、これは包丁でナモミを剥ぎ、剥いだナモミを桶に入れるということから来ています。

授与所の前では上の説明をする巫女さんと、説明を聞くナマハゲの格好をした自分という一見シュールな光景が…。

巫女さん可愛かったです、ハイ。


ナマハゲは各集落の若者たちが面をつけて藁で編んだケデを身にまとい、威厳のある所作で氏子各家をまわり新しい年の幸福を祈るもの。男鹿のなまはげは「年の折り目に神が来臨して人々に祝福を与えるという古態をとどめ、我が国古来の民間信仰の一形態を示すもの」として、昭和53年に国の重要無形民俗文化財に指定されました。

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札幌村神社 (北海道札幌市東区)

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札幌村神社 (さっぽろむらじんじゃ)




旧無格社

神紋:右三つ巴

祭神:大國魂神、大巳貴神、少彦名神

例祭日:9月5日

最寄の交通機関:地下鉄東豊線「環状通東駅」下車、徒歩3分






札幌村神社は札幌市東区に鎮座する神社。

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明治32年創立、創立の際、札幌神社と名称を付けようとするも官幣大社・札幌神社と同名になるため許可されず、「村」を付けることで許可され現在の「札幌村神社」という社号となった。

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「鳥居の前にある社号標」

明治33年11月1日に創祀、一村の氏神として崇敬するため、村民一同協議の上、明治34年9月出願し、同年許可される。

明治34年石狩国札幌郡札幌村大字札幌村の地主・高木長四郎が札幌村神社敷地として畑地2反1畝22歩を寄付。

祭神は北海道神宮より大國魂神、大己貴命、少彦名神の三神を奉斎している。

昭和9年4月1日行政区割変更により札幌市に編入。札幌市北14条東14丁目23番地と変更。

昭和46年11月札幌市の区画整理により現在地に遷座。

現在の社殿は平成19年8月に造営されたもの。


社殿も境内も新しく整備された感じですが、狛犬は年季が入っていました。

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真新しい社殿の右側にはアメリカのカントリー調の社務所。

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「拝殿」

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「扁額」

境内の右側には日露戦役忠魂碑が建っています。

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「日露戦役忠魂碑」


御朱印は社務所で頂きました。

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社務所ですが普通の家で授与所があるわけではないのですが、授与品は社務所までと張り紙があったのと、ちょうど女性二人が社務所で何か授与品を頂いていたようだったので御朱印をお願いしてみることにしました。

羽後国遠征 1日目 (秋田・平成25年2月16日)

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皆さん、こんにちわちわ。

2月16日から19日まで羽後国まで行ってきたので、ちょっとした覚え書き。


まぁ羽後国と言っても主に秋田なわけで、主な目的は宮古海技短大時代の友人に会うことなのですよ。

前々から一度秋田で飲もうよって話があって、予定を16日にしていた…と。


その当日16日の2日前に会社に退職の電話を入れていて、恐らく会社と引き留め電話のやり取りがあると思われることから、16日の予定は延期にしようと思っていたところ、当日16日の朝に友人の一人から「何時ころに秋田着きますか~?」という電話。

急いで準備する俺がそこには居た…。





函館駅。

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昼過ぎの函館発の特急スーパー白鳥に乗り青森へ。そこから奥羽本線の特急つがるへ乗り換え秋田に19時前には付く予定だった。

だった…。そしてついでのイレギュラー。






青森駅で乗り換え列車の待合中に会社の部長から退職引き留めの電話があった…と。

まぁ↓こんな感じのやり取り。






なんとか碑文谷潤教授から教わった方法で、ひとまず退職届を送ってくれという所まで漕ぎつけたのだが。


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「青森駅」

あと、おりしも西高東低の冬型の気圧配置で大雪の降った青森県は発車も30分ほど遅れ、数箇所で線路のポイントが切り替わらず最終的に1時間ちょい遅れの20時過ぎに秋田に到着。

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「乗車した特急つがる」



実はワタクシ、秋田市に入ったことはあるのだけれど(古四王神社、護国神社参拝時に)、秋田市街は初。

駅前にはビルも立ち並んでて青森よりも都会という印象…だった。

この時は…。


とりあえず友人2人の待つ居酒屋へ行くことにする。

秋田市の歓楽街は、秋田駅から西へ700mほど行った大町・川反にある。

指定された居酒屋をタクシーの運ちゃんは知らず少し迷走したものの現地に到着し久々の再会。


とりあえず再会を祝すのと自分の退職祝い(?)というわけで「きりたんぽ鍋」をつつく。

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きりたんぽ鍋ウメェ。地元の友達には買い忘れた。スマソ




しばらくしてから二次会でキャバクラへ。何故か函館みやげで渡そうと買ってきていたスナッフルスのチーズオムレットを食う友人とキャバ嬢、合計6人。

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とりあえずチーズオムレットは好評だったみたいだからまぁいいか…。


そして三次会、スナックへ。

基本的に女の子と話す機会があまりないのと分かる話題じゃないとさっぱり離せなくなるのである意味リーダーである同い年の友人1人がトイレで居なくなったりすると話すことが無くなるわけで。

俺、ドラクエとかゲーム全然やったことないからそっちの話題で話を広げられない…っ。

もう一人の若い方の友人は何故か「ガールズパンツァー」の話をしようとするし…。スナックでガルパンの話はダメだ!


気づいたら夜中の1時過ぎ。そんなこんなで1日目の夜は更けていった。

羽後国遠征 2日目 (秋田、男鹿・平成25年2月17日)

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前日の飲み会後、近くのホテルでそれぞれ部屋を借りた野郎3匹。

起床してとりあえず男鹿半島に行こうってことになった。ちなみに男鹿方面には友人2人の家がある。



秋田から秋田港、潟上市を経由しながら国道101号線を北上する。

途中、「道の駅てんのう」を通過。てんのうはてんのうでも、陛下じゃなくて天王のほう。

潟上市は元は天王町で、東湖八坂神社の祭神・素盞鳴尊の関係から牛頭天王の天王なわけですよ。



男鹿市に入ると国道沿いにある男鹿総合観光案内所にまず巨大ナマハゲ出現。

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男鹿のナマハゲ推しは凄まじい。あとたまにハタハタ絡みが。




とりあえず寒風山へ。


●寒風山

寒風山は男鹿半島中心部にある火山。今は活動してないけど火口原があったり木が生えてなかったり山頂に展望台があったりパラグライダーの聖地だったりするらしい。

山頂まで行ければよかったんだけど山頂への分岐は雪で通行止め。

途中の展望台からも男鹿の景色を眺めることができるけど、寒風山周辺はほとんど木が生えていないので景色がとても綺麗。

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寒風山のあとは男鹿半島一周。

男鹿半島の西側の海岸沿いの道は断崖絶壁の上を走るワインディング道路。

ハンドル操作を間違うとガードレール突き破って200mくらい下の海に直行だったりするので結構怖い。

途中、江戸時代の旅行家の菅江真澄の探訪した所に説明文の書いた標柱がいたる所に立ってたりします。

菅江真澄は北海道の太田山神社にも参拝したことがあるので個人的に馴染みもある名前だったり。



しばらく走ると男鹿半島の北西に突き出した入道崎に到着。


●入道崎'

風が強くてクソ寒い…。

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白黒の縞模様の入道崎灯台と、ちょうど北緯40度のラインが通っているので、そのモニュメントが建ってます。

ナマハゲの形したお土産店もあったりするけど、風が強いので早々に撤収して、ナマハゲで有名な真山神社へ。



●真山神社

「そういえば伽月さん神社とか回るのが趣味なんですよね~。」ってお言葉に甘えて真山神社に参拝。

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祭神は邇邇藝命と武甕槌命。一節には漢の武帝が祭神という説もある神社。

ナマハゲは大晦日に男鹿地方の家々を「悪い子いねがー!」って回って歩くが有名だけど、ナマハゲは真山神社の神事でもあるわけですよ。

授与所にはナマハゲのお面と包丁と桶のナマハゲ体験3点セットが置いてあって自由にナマハゲになりきることができます。

というわけでなりきってみた。

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事前情報無しで参拝したので、ナマハゲの桶の意味がわからず、「なんで桶なんだろうねぇ」と呟いたらすかさず巫女さんの説明が入りました。

ナマハゲのお面を付けた状態で巫女さんの説明に頷くワタクシ。

シュールな光景だったと思う。微妙に巫女さん半笑いだったしw

真山神社はブログの方で記事にまとめました。
http://blogs.yahoo.co.jp/kazuki133/53368787.html

ちなみに参考にナマハゲさん↓




真山神社のあとは友人宅で一休みしてから秋田へ帰投。


●稲庭うどん

秋田駅近くの「エリアなかいち」にある稲庭うどんの店『寛文五年堂』さんで稲庭うどんを頂く。

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「鴨せいろ」

稲庭うどんは日本三大うどんの一つで、以前、高松で同じ三大うどんの讃岐うどんにハマってかなり食べてたことがあるけど、讃岐うどんと比較すると稲庭うどんは細い。

普通のうどんとひやむぎの間くらいの太さで平たい麺だけど、しっかりコシがあって美味しかったです。

稲庭うどんを食べてから友人と別れ、ここから単独行動。












さて、ここから完全趣味の領域。

まずは秋田市街にある千秋公園へ。


●千秋公園(久保田城址)

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千秋公園は佐竹氏の居城だった久保田城がそのまま公園として整備されたものです。

現在建物として整備されているのは御隅櫓と一ノ門。

公園内には八幡秋田神社、弥高神社があるので、まずこの2社に参拝。



●八幡秋田神社

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本丸跡にある八幡秋田神社。祭神は品陀別命、息長帯姫命、比売神、佐竹義宣、佐竹義和、佐竹義尭。

元々はそれぞれ県社だった八幡神社と歴代藩主を祀る秋田神社を合祀したので八幡秋田神社という社号になっています。

実はこの八幡秋田神社はとある理由でだいぶ前から知ってました。

というのも2005年に賽銭泥棒が金がなかったのに腹を立てて放火して拝殿・本殿を全焼したというニュースを見たので…。

全くひどい話である…。

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今回参拝したときは綺麗な真新しい社殿が建っていました。

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●弥高神社

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旧県社で、祭神は幕末の国学四大人の一人であり復古神道を提唱した平田篤胤と思想家の佐藤信淵。

『朝霧の巫女』に登場する平田篤瀧は平田篤胤の子孫という設定だと思う。

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「平田篤瀧」(『朝霧の巫女』四巻P26より)

元々は明治14年に平田神社として創建されたのが佐藤信淵を合祀して弥高神社になった。

創建は明治だけど社殿は江戸時代のもので社務所もしっかりしてるので明治の創建の神社という感じがしない。

一応、菅原道真と同じく学問の神様という位置づけになってるみたいでした。

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●佐竹史料館

久保田城二の丸にある藩主・佐竹氏関連の資料を展示しています。

もしかしたら久保田城のジオラマを展示してるんじゃないかと思って入ってみたけどジオラマはありませんでしたが、その代わり佐竹義宣所要の具足が展示されていました。

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(上)伊予札黒韋素懸威二枚胴具足
(下)人色皮包胴黒糸威具足。

どちらも初代藩主・佐竹義宣所用の鎧。

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「困ったほどの律義者(佐竹義宣公)」(画・幾花にいろ氏)

ちなみに兜のモコモコしてるのは毛虫。

毛虫は前にしか進まないからと言うことで決して引かないという勇猛さを表しているそうです。

佐竹義宣の父の義重も同じ毛虫の前立の兜なので佐竹氏の特徴なのかも。


旗指物も展示されてました。

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旗に描かれているのは佐竹氏の家紋「扇に月丸」。

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写真は旗の竿が通る部分を拡大したものですが、ドーマン、セーマンが刺繍されていました。



とりあえずここで既に午後4時を回っていたので、今から太平山三吉神社に行ってもゆっくり参拝できないだろうと言うことで、駅周辺をうろうろ。

何気に人通りを見てて思ったけど、秋田は美人さんが多い!

俺の彼女~!щ(゚д゚щ)カモーン



そんなこんなでこの日は秋田駅東口の漫画喫茶でナイトパック使って一泊。

大抵、電車移動の旅行の時は漫画喫茶を利用します。

パソコン使って翌日の予定立てられるし。

羽後国遠征 3日目

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漫画喫茶の朝は早い。

ていうか隣のオッサンがブースのドアを勢い良く締めたり、独り言喋ったり煩くてちょっと睡眠不足。


朝8時頃に漫画喫茶を出て、駅のロッテリアで軽く朝食。

しかし、秋田駅の東口と西口のギャップたるや…。

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西口はビルが結構立ってるのに東口はさっぱりしてる感じで。




今日の目的はとりあえず太平山三吉神社に行くこと。

秋田駅東口からもう面倒臭いのでタクシーで太平山三吉神社まで。

船乗りやってるとタクシー使うことが結構多いので距離と時間を考えるとついタクシーを使ってしまうようになりました…


●太平山三吉神社

ここは恐らく秋田県内で一番有名な神社かもですよ。

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北海道から東北にかけての三吉神社の総本宮。奥宮は秋田市の北東にある太平山の山頂にあります。

拝殿も大きくて社務所と一体化してました。その割に境内が狭いので圧迫感が…。

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参拝後、とりあえず秋田駅へ戻ることに。

このあとの予定でかなり悩んでいて、このまま海岸線を南下して出羽国一宮の大物忌神社までいくか、秋田県内の別表神社をコンプリートするか悩んだ末、別表神社を優先することに。

とりあえず、秋田県内の別表神社は残す所あと1社ということで、美郷町にある秋田諏訪宮に参拝しに行くことにしました。


ひとまず秋田駅からローカル線で奥羽本線を南下。



●大曲

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とりあえず大曲といえば花火が有名で、まぁ下車すれば何かしら見どころはあるだろうということで下車してみた。

早速、駅構内に大曲の花火の看板が。

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なんだ、萌えキャラかw

とりあえず、はなちゃん可愛いので写真を一枚。

はなちゃんだから、CV:花澤香菜さんということで一つ宜しくお願いします。



ちなみに大曲は、ご当地グルメの『大曲納豆汁』が有名だそうで、その納豆汁を食べられる店を探して、一軒のお店に。



●納豆汁・ひきなそば

大曲駅前の花火通商店街を少し歩いた左側に「北野水産」って店があります。

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大曲には納豆汁をいただける店は何軒もあるけど、駅の観光協会にあったパンフレットでは駅から一番近そうだったので、ここで頂くことに。

昼間は蕎麦屋、夜は居酒屋っていう感じで営業してるようで、蕎麦屋のお品書きには納豆汁は載っていなかったけど、聞いてみたら注文できるそうで、そばと一緒に注文してみた。

んで、こちらが「ひきなそば」と「納豆汁」

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ひきなそばは岩手県の名物蕎麦らしいけど、岩手に住んでた時には名前すら知らなかった。

ちなみに、そばと一緒に切干大根が入っているのだけれど、これがシャキシャキとした歯ごたえでなかなか美味しい。


納豆汁は、一言で言うと納豆風味の味噌汁。豆腐にキノコ、山菜などの具が沢山入っています。

これもなかなかうまかった。




ひとまず、大曲はこれくらいにして隣町になる美郷町の秋田諏訪宮へ。




秋田諏訪宮の最寄り駅は大曲駅の一つ南の飯詰駅。

タイミングよく汽車も来たので飯詰駅へ。



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昔ながらの駅舎。ここでJCとかJKがストーブにあたってたりすると雰囲気出てていいんだけども…。

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駅前は結構寂れてた…。



とりあえず駅前に会ったタクシー会社でタクシーを呼んでもらって20分くらい待ってから秋田諏訪宮へ。




●秋田諏訪宮

一応、タクシーの運ちゃんに「秋田諏訪宮まで」と言ったんだけど降ろされたのが地元の小さめの神社って感じで、しかも雪に埋もれてて、思わず鳥居の額を二度見。

間違いなく秋田諏訪宮だった。

一応、神社本庁の別表神社のはずなんだが…

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まず参道は除雪されていたけど1.5mの積雪で手水舎が埋もれてるし、二の鳥居に至っては笠木・島木が落ちて脇に置いてあるし、拝殿は右側が倒壊したんじゃないかという有様。

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社務所(だと思う)も雪やばいし…。

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とりあえず数日前まで小正月の神事の「かまくら行事」が行われていたはずなんだが…。

結局インターホン鳴らしても反応がなかったので撤収。




んで、このタイミングで会社からまた電話が。

要は、「やっぱり4月まで1ヶ月でいいから乗ってくれないか」と…。

どうしても無理ですって言ったら「函館まで行く」とか言われるし。


この後、心を乱されたせいで、本来名水の町として有名な美郷町を全く観光もできず、バスで南隣りの横手市まで向かいました。



●横手

横手は「かまくら」が一番有名。

部長の「函館まで来る」って一言で落ち着かず、もう一度電話して「函館来られても全くの無駄足」と言って退職届と保険証を送る流れに何とか落ち着き、横手観光へ。



実は横手のかまくら祭は前日で既に終わっていて、市内にあったかまくらの数々は祭りの後はすぐに潰す方針だそうで跡形もなくなっていました…。

駅から少し離れた「かまくら館」には-20度の部屋の中にかまくらが保存されているということで雰囲気だけ味わってきた。

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「かまくら館」から駅に向かう途中、駅近くに唯一かまくらが壊されずに残ってた…。

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ブッダさんらしき雪像もあったけど「もうゴールしてもいいよね…」って感じに溶けかかってたし。


●横手やきそば

横手にも「横手やきそば」というB級グルメがある。

駅に隣接する観光案内所にも横手やきそばを食べられる店の地図なども置いてあったけど、自分は駅前にある居酒屋の「七兵衛」さんで頂いた。

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横手やきそばの特徴は半熟の目玉焼きと福神漬が乗っていること。あと普通の焼きそばに比べるとソースがサラサラしてて若干つゆだく。麺も少し太い。

ちなみにこの七兵衛さんの横手やきそばは、比内地鶏の卵を使っているのが特徴。

比内地鶏の卵は通常の卵に比べて7倍の値段がするらしい。

麺の量も変えられるようで、画像はシングル。

シングルであれば美味しくてぺろっと行けてしまうので、もう少し多めでもいいかもしれない。



3日目は横手駅前のプラザホテルで宿泊。

こちらに宿泊すると、隣接する横手駅前温泉ゆうゆうプラザの無料入浴券(タオルもセット)がいただけるので、早速チェックインしてから行こうと思ったのだけれど、前船の仲の良い機関士から電話が入ってしまい(大抵長電話になってしまう)風呂の時間が遅くなり、結局30分くらいしか入浴できなかった。

雰囲気の良い綺麗な温泉で、露天風呂もゆっくり長風呂できる温度だっただけに残念。



とりあえず会社に退職届も送らねばならない関係から明日、地元に帰ることに。

亀田八幡宮 (北海道函館市)

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亀田八幡宮 (かめだはちまんぐう)




旧郷社

旧国名:渡島国亀田郡

神紋:左三つ巴

祭神:誉田別命

例祭日:9月20日

最寄の交通機関:JR函館駅から車で10分






亀田八幡宮は北海道函館市に鎮座する神社。

函館では通称「カメハチ」とも呼ばれ、函館八幡宮と並んで有名な神社です。

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創建は明徳元年(1390)、越前国敦賀郡(現・福井県敦賀市)に鎮座する気比神宮より、八幡大神の御分霊を同国の笠原右源太がこの地に奉遷。その後、陸奥国の豪族、安東政季と共に蝦夷地へ来た河野政通が函館にその地名の由来となる館を造り、笠原右源太の孫・笠原左衛門を普請奉行として召抱え、それより河野氏から篤く崇敬されるものの、松前藩の祖先・武田信広が現在の上ノ国町にある勝山館に居城し、河野家との戦争状態となり祭祀営繕等も不能の状態となった。

(由緒では武田・河野の間に戦乱とあるものの、他の資料には同様の記述は見当たらない。)


蝦夷地大乱の時、松前藩4代藩主・慶広が南部大澗より渡来の智楽院(藤山家の祖先)に七飯村藤山頂上で必勝祈願をさせ大勝し、その時アイヌ勢が七重浜の柏の木々、草木を軍勢と勘違いし降参したのは八幡宮の加護と、信広の大弓半弓を奉納、正月6日の法楽神事を仰せ付け、七重浜の柏樹林の伐採を禁じ、松前藩の祈願所に定めた。

慶長8年(1603)10月本殿拝殿を建立(現・神輿殿、文久2年(1862)8月に改築)。毎年祭祀料玄米25俵、各村の役納を仰せ付け大祭毎に代参。

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明治元年、蝦夷総督・清水谷公考が参拝。戊辰戦争(箱館戦争)では榎本武揚・大鳥圭介が八幡宮において降伏を誓約。

明治2年8月と12月、侍従・東久世通禧が参拝。明治9年に郷社に列格。明治15年に有栖川宮幟仁親王の御真筆が奉納。

明治41年に神饌幣帛料供進神社に指定された。


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かつて拝殿として使用されていた神輿殿には箱館戦争当時に受けた銃弾の跡が今でも残っています。


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成香神社 (北海道虻田郡洞爺湖町)

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成香神社 (なるかじんじゃ)




旧国名:胆振国虻田郡

神紋:右三つ巴

祭神:天照大神、倉稲魂命、大巳貴神、埴安媛命、少彦名命

例祭日:9月4日

最寄の交通機関:道南バス 倶知安~洞爺湖温泉系統「成香」バス停下車、徒歩15分






成香神社は北海道は洞爺湖の西側、洞爺湖町成香地区に鎮座する神社。

道南住民が札幌へ向かうときに利用する最短ルート、豊浦町から洞爺湖町香川まで続く道道285号線を札幌に向かって走り、花和地区を過ぎると左手に現在は閉校になっている成香小学校があり、そのすぐ先の道路沿いにある。

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成香神社の創祀は明治37年(1904)8月。

明治32年頃、屯田地区の人達が花和境の山の上に建てた神社と雨乞いのために建てられていた祠を合祀し現在地に建立したといわれている。(北海道神社庁誌)

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祭神についての記載は「北海道神社庁誌」によれば天照大神とのみ書かれていたが、境内にある祭神標には天照大神の他に倉稲魂命、大巳貴神、埴安媛命、少彦名命と彫られていた。もしかすると主祭神は天照大神で、他の4柱は合祀なのかも知れない。

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「参道入口にある祭神標」

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「社号標」



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「扁額」

それと一つ気になったのが扁額の揮毫した人の事。

「成」の字の点が足りないのはまた別として名前の所に「○○大臣 ○○○男」と書かれていた。

ちょっと小さい神社のためググっても出てこないので自分で勝手に考えてみたのだけれど、もしかすると

「運輸大臣 木村睦男」なのではないかなぁと思う。

木村睦男氏は1974年から76年まで三木内閣において運輸大臣をしておられた方。

洞爺湖へ来られたという情報は見つけられなかったけれど、判読してみてコレが精一杯でした。




参道の脇には「愛郷無限」と書かれた開拓記念碑が建っています。

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裏に書かれていた文章は次の通り。

碑文
明治二十二年頃大木生い茂る成香の地に足跡を残した人ありと言い伝えられる。明治二十五年セタイトシマモイ(旭浦)に北海孤児院(院長 林 竹太郎)が開院す。明治二十六年孤児院はこの成香で六百町歩に及ぶ農場経営を目指して孤児及び献身者により樹木を伐採し以後開墾して黍類などを耕作し始める。明治二十八年数十戸の入植により本格的な開拓がなされる。当時の厳しい自然を相手に鍬を振い凶作にも打ちかち強い精神力で過酷な生活や寒さと対決しながら血のにじむような苦闘の末今日ある繁栄の基礎を築かれる。ここに成香開拓百星霜を迎え今日までの足跡を回顧するとともに先人の偉徳を称え村内外の人々の協力を得て成香自治会の新たなる発展を期し之を建立す。
平成元年八月
成香開拓百年記念実行委員会


成香という地名は、元々はアイヌ語のニナルカから転訛して仁成香、そして成香となったようだ。

ニナル・カは「川沿いの台地の・上」の意。



ちなみにこの成香神社に参拝した理由は、はいてない麻雀漫画である「咲-Saki-」でインターハイ南北海道代表・有珠山高校の先鋒・本内成香(もとうちなるか)の名前が恐らく洞爺湖町成香から採られていると考えられるからです。

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原作では現在準決勝まで進出しており、自分も南北海道の人間なのでインターハイ優勝を祈願して来ました。

「成香ちゃんガンガレ!超ガンガレ!」

十勝神社 (北海道広尾郡広尾町・十勝国一宮)

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十勝神社 (とかちじんじゃ)




旧県社、十勝国一宮

神紋:左三つ巴

祭神:大綿津見神(おおわたつみのかみ)、保食神(うけもちのかみ)、塩土老翁神(しおつちのおぢのかみ)

例祭日:9月21日

最寄の交通手段:




十勝神社は北海道の十勝支庁南部の広尾町に鎮座する神社。明治初期の北海道に一時期存在した十勝国(とかちのくに)の一宮でもある。

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十勝神社は寛文6年(1666)6月に、蠣崎広林(かきざきひろしげ・1634~1672)の十勝国警衛の祈願社として蠣崎蔵人が創祀。

かつては刀勝(トカチ)大明神、トカチ明神社と呼称されていた。()

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その後、シマウス海岸に漂着した流木が龍神の形のようだったところから神体として祀るようになった。

漁業が豊かになり地方の崇敬は益々厚くなり、この流木に彫刻を加えて木像とした。その年月日は不詳であるが丈4寸余りの小像で聖徳太子に似ていたと伝えられる。

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寛政10年(1799)11月には近藤重蔵がエトロフよりの帰路、広尾・様似間の新道開発の記を献額している。

明治7年、開拓使社寺係取調の際、広尾出張所派出14等出仕・酒井忠郎が調査上申の末、同8年12月に社寺係の通達により仏像及び仏具は悉く退け、同時に祭神を大海津見神と称号することとし、明治9年3月郷社に列せられる。

同16年社殿の損壊に伴い改築及び鹽竈神社・稲荷神社の合祀を出願し許可される。同22年6月30日社殿が落成し、大正4年9月神饌幣帛料供進神社に指定される。

大正5年5月移転改築が許可され同7年12月現在地に改築竣工し奉遷した。昭和20年県社に列せられ、昭和21年宗教法人となる。

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合併により合祀された歴史をもつ御祭神

稲荷神社 保食神 天保6年3月16日創祀 明治21年5月合祀
鹽竈神社 塩土老翁神 安政7年2月創祀 明治21年5月合祀


・手水鉢 (広尾町指定文化財)

天保7年(1836)3月、トカチ会所の福島屋支配人喜右衛門がトカチ場所で働く者一同の(広尾会所、庶野、音調津、当縁、大津番屋あり)平安無事を願って、トカチ明神社に奉納したものである。

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・石灯籠 (広尾町指定文化財)

慶応2年(1866)十勝場所請負人・福島屋の雇船であった越後、糸魚川の大野屋源右衛門所有の北前船「嘉宝丸」の船頭喜次郎が航海の安全を祈って、トカチ明神社に奉納したものである。
灯籠は台上1.55m、材質が花崗岩で左右一対である。

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社務所は境内横にある住宅。

北海道内も細かく分けると支庁の前は国だったわけで、この十勝神社は十勝国では最も古い歴史を持つ神社。

十勝国一宮と認定していいのではと思って参拝。


授与所は無いのだけど、社務所だと思ったので御朱印を頂きに伺った。

御朱印は「十勝国一ノ宮十勝神社」となっています。

一の宮巡拝をしている方はコチラも是非ご参拝くださいね。

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夕張神社 (北海道夕張市)

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夕張神社 (ゆうばりじんじゃ)




夕張市総鎮守、旧郷社、巡洋艦「夕張」艦内神社

神紋:十六菊に花菱

祭神:《主》大山祇神,大国主神,鹿屋野比売神,《配》菅原道真

例祭日:5月11-13日

最寄の交通機関:JR夕張駅よりバスで10分、夕張神社前下車






夕張神社は夕張市市街の北東にある石炭の歴史村のすぐ近くに鎮座しています。

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明治22年(1889)11月18日、北海道炭鉱鉄道株式会社の設立と共に、夕張炭山並び鉄道敷設の安泰祈願の神社として、登川村夕張炭山字社光に社殿が造営されたのが始まりで、井上角五郎により伊予国一宮・大山祇神社と出雲大社の御分霊が祀られた。

これが御創立の由来で、同会社社長・高島嘉衛門の意志により、社光より現在地に移転し「登川神社」と称号。

大正10年(1922)5月に社殿・社務所などを焼失し、大正12年の再建を機に「夕張神社」と改称。

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拝殿の夕張神社の扁額は東郷平八郎元帥の揮毫によるものだが、北炭の優良石炭に感謝の念を抱いていたという東郷元帥が、焼失した社殿を再建する際、北炭の関係者の依頼により揮毫し、夕張神社に寄贈したもの。

なお、大正12年(1923)7月に竣工した聯合艦隊の軽巡洋艦「夕張」の守護神として夕張神社の御分霊が艦内神社に祀られた。

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昭和4年に村社、昭和9年に郷社に昇格。

昭和38年に大山祇神社、昭和42年に出雲大社から御神宝が与えられ、昭和46年に太宰府天満宮より菅原道真公の御神霊の奉斎が許可され、同年10月2日に御奉遷の儀が斎行された。

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「神輿殿」


社務所は社殿の左側。授与所もあったので御朱印もいただけるだろうと伺いました。

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・軽巡洋艦「夕張」

「夕張」は旧日本海軍の軽巡洋艦。

海軍時代に北海道内の川から唯一命名されたのが「夕張」で、それも1隻しかない先進的な実験艦の要素もある軽巡洋艦に採用された。

「夕張」は、当初、八八艦隊計画で5500トン級巡洋艦の一隻として予定されていたものがワシントン軍縮会議の結果、小型試作艦として平賀譲大佐(のち中将)により設計された。

建造費節約の結果、駆逐艦並の船体に軽巡洋艦の兵装という当時では画期的な巡洋艦で、反り返った船首、傾斜したマスト、二本を結合した煙突などは、後の重巡「古鷹型」「妙高型」のプロトタイプとなった。

太平洋戦争末期の昭和19年4月にパラオ諸島南西海域において米潜水艦「プリューギル」の雷撃により沈没。

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軽巡「夕張」(大正12年7月31日 佐世保軍港にて)

起工:大正11年(1922)6月5日 佐世保工廠
竣工:大正12年(1923)7月31日
排水量:2,890トン
全長:139.99m
全幅:12.04m
速力:35.5ノット
兵装:50口径14cm連装砲2基4門、50口径14cm単装砲2基2門、61cm連装魚雷発射管2基4門
戦没:昭和19年(1944)4月26日



・護衛艦「ゆうばり」(DE-227)

艦名は戦没から約40年後の昭和58年(1983)に2代目となる海上自衛隊の護衛艦「ゆうばり」にも引き継がれました。

「ゆうばり」はゆうばり型の1番艦で、2番艦は「ゆうべつ」。前級のいしかり型が手狭だったことから準同型艦として建造された小型の護衛艦です。現在は2隻とも除籍。

ちなみに「ゆうばり」の艦内神社(神棚)にも夕張神社の御神札がお祀りされているそうで、平成19年(2007)に夕張市が財政破綻した際には、「ゆうばり」の乗組員から集まった30万円が寄付されたそうです。

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護衛艦「ゆうばり(DE-227)」

起工:昭和56年(1981)2月9日 住友重機浦賀工場
竣工:昭和58年(1983)3月18日
排水量:1,470トン
全長:91.0m
全幅:10.8m
速力:25ノット
兵装:76mm62口径単装速射砲 1基、ハープーンSSM 4連装発射筒 2基、71式ボフォース・ロケット砲 1基、68式3連装短魚雷発射管 2基
除籍:平成22年(2010)6月25日


境内に巡洋艦「夕張」の慰霊碑が無いものかと探しましたが見当たらず。

とりあえず昔は境内に夕張の砲弾が奉納されていたそうですが戦時供出で無くなったとか。



ちなみに最近の軍艦を擬人化した『艦隊これくしょん』というゲームではこんなのも…

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コンパクトボディに重武装…(・д・)ジーッ

小さいのに出るとこ出てる…というわけではないのか…。

海上自衛隊の次期護衛艦・24DDHの艦名候補について考えてみた。

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新艦名をネット誤掲載 防衛省
http://obiekt.seesaa.net/article/369426422.html

海上自衛隊19500トン型護衛艦(22DDH)新艦名「いずも」、8月6日進水 ヨークタウン級空母と大きさはほぼ同じ - 大艦巨砲主義!


上のリンクのニュースでもあるように、今年の8月に進水式が行われるヘリコプター搭載護衛艦・22DDHの艦名が「いずも」(出雲)という情報が出てきました。

この19500トン級(22DDH)の姉妹艦としてもう1隻・24DDHの建造が来年1月に予定されています。



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ひゅうが級(下)と19500トン護衛艦(上)の比較予想図。
学園艦としてはまだ小さいですが、「すごく大きいです…」


それまでのヘリ搭載護衛艦は「ひえい」「はるな」「くらま」「しらね」(比叡・榛名・白根・鞍馬)というように山の名前から採用されていましたが、初の全通甲板のヘリ搭載護衛艦である前級のDDHは「ひゅうが」「いせ」(日向・伊勢)というように日本の旧国名から採用されました。

というわけで、その命名基準の例に漏れず、今回22DDHの艦名が「いずも」(出雲)という報道が出たわけですが、姉妹艦の24DDHの艦名は何になるのか、ちょっと考えてみました。



はじめに、22DDHに命名されたという「いずも」(出雲)は島根県東部の旧国名で、初代が日露戦争で活躍した装甲巡洋艦に命名された名前です。

「出雲」の姉妹艦は「磐手」。この頃の命名基準はまだはっきりしていなくて、「磐手」は岩手県にある岩手山の事で、山岳名から採用されています。

現在まで「いずも(出雲)」と命名された艦はこの一隻しかありません。

ちょうど今年2013年5月に出雲大社は式年遷宮を終えたばかり。ちょうどタイムリーで良い名前ではありませんか。


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装甲巡洋艦「出雲」。水に濡れると凶暴化するとかしないとか…





さて、今までの帝国海軍時代からの命名パターンからして、国名に「上・下」、「前・中・後」が付く国名は一部の例外を除いて付けられていません。(例外:丹後・肥前、いずれも日露戦争での鹵獲戦艦)

恐らく、24DDHも帝国海軍時代の旧国名から採用された艦名を付けられるとしたら…、ここはひとつ消去法で候補を洗い出してみます。

・現在まで艦名として採用されたことがある。
・「上・下・前・中・後」が付くものを除外。
・海上自衛隊でDDH以外の艦種で採用されたことがある旧国名が付いている艦も除外。
・「ひゅうが級」の2艦も除外。
・計画止まり、もしくは建造途中で未成艦として廃艦されたものも除外。
・帝国海軍時代に初代はロシアから鹵獲した戦艦で2代目は海防艦(島の名前が基準)に命名された「壱岐」を除外。


すると候補としては下記のようになります。

 
・安芸(あき)
・和泉(いずみ)
・石見(いわみ)
・加賀(かが)
・河内(かわち)
・薩摩(さつま)
・信濃(しなの)
・摂津(せっつ)
・長門(ながと)
・武蔵(むさし)
・陸奥(むつ)
・山城(やましろ)
・大和(やまと)



この中で、個人的に

・「大和」「武蔵」はそう簡単には採用されない。
・「長門」「陸奥」も同じく。
・「出雲」の隣の国、もしくは地理的に近い国名は多分採用されないので除外。
・平時に火薬庫が爆発して沈没とか…未完成状態で回航中に雷撃受けて沈没とか…、なんとなく縁起が悪いとか採用されなさそうな気がする艦名は個人的に除外。(河内と信濃)


そうすると、

・和泉(いずみ)
・加賀(かが)
・薩摩(さつま)
・摂津(せっつ)
・山城(やましろ)

が残ります。



出雲大社の「大社」繋がりで、あえて諏訪大社のある「信濃」という可能性も無きにしもあらずですが…



この残った中では戦艦の名前だった「山城」が本命かなぁと思うのですが以下考察。

「山城」は扶桑級戦艦の2番艦として建造されたもので、現在の京都府が山城国でした。
もちろん、京都なので歴史的にも重要ですし、候補の中では本命かと思います。

正規空母「加賀」はDDHという艦種的にもバッチリ合うのですが、元々戦艦として姉妹艦の「土佐」と建造されていたのが、「加賀」は空母に、「土佐」は廃艦だから、次こそは2隻一緒にしてほしいというのが個人的な願い。

「摂津」は河内型戦艦の2番艦でしたが、1番艦の「河内」は錨泊中に火薬庫が爆発し沈没という、あまり縁起が良くないというのと、どうせなら摂津と河内は姉妹艦にと思うので上と同じ理由。

「薩摩」は国産初の戦艦で姉妹艦は「安芸」でしたが、出雲と薩摩だと、島根県と鹿児島県で旧国名としては場所が西に偏るし…やっぱり姉妹艦は姉妹艦で一緒にして欲しいし…。ただ「いずも」が第1護衛隊群(舞鶴)に配属となると、24DDHは第2護衛隊群(佐世保)に配属となりそうなので、九州の国名が付けられる可能性も無いとは言い切れません。


残った「和泉」ですが、ちょっと可能性はあります。

「和泉」は日本海開戦で活躍した防護巡洋艦に命名された艦名ですが、元々はチリ海軍の「エスメラルダ」を日清戦争中に戦力の補強として購入したものでした。


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エスメちゃんこと防護巡洋艦「和泉」(イギリス生まれ)


んで、「エスメラルダ」から改名するときの候補として選ばれていたのが「和泉」と「出雲」でした。(「エスメラルダ」のエスメと「いずみ」「いずも」は似てたから選ばれたという説がある)

そんな訳で「和泉」も無関係ではないから採用される可能性はあるんですよね。(逆に似てるから採用されない可能性も)

というわけで…

◎山城(やましろ)
○薩摩(さつま)
△加賀(かが)
▲摂津(せっつ)
×和泉(いずみ)

と、既存の艦名からの候補としてはこのように予想してみました。

あくまでも既存のです!



あとは、大穴として今まで艦名として採用されたことのない旧国名という可能性もあるのですが…

艦名に採用されなかった旧国名としては次があります。

伊賀、志摩、尾張、三河、遠江、駿河、伊豆、甲斐、安房、常陸、美濃、飛騨、出羽、佐渡、但馬、因幡、隠岐、播磨、美作、紀伊、阿波、讃岐、伊予


この中には八八艦隊の計画艦の艦名とされていたものも入っているのですが、個人的には

ひたち(常陸)

を推したいです。


まず、日本神話という意味でも出雲国(島根県)にはオオクニヌシが祭神の出雲大社があるのに対し、常陸国(茨城県)には武神のタケミカヅチを祀る鹿島神宮がある由緒ある国名だということ。

地理的にも日本海沿岸で西にある「いずも(出雲)」に対して、太平洋沿岸で東にある「ひたち(常陸)」は、「国防」という面でも『西の「いずも」』、『東の「ひたち」』と格好が付くのではないかと。

他にも、茨城県沿岸部は東日本大震災の被災地でもあるから、もし艦名として採用されたら地元の人とすれば嬉しいような…気がする。

それに…




ガルパンの聖地の大洗もあるしな( ー`дー´)キリッ



とまぁ…「ひたち」という言葉というか音も個人的に綺麗だと思うので、上の予想とは別に大穴というかむしろ本命としてコチラを推したいですね

m(_ _)m

伊勢に遠征してきます。

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伊勢神宮の式年遷宮が間近なので、遷宮前に伊勢神宮に参拝してきます。

明日28日に苫小牧発、29日に福井県敦賀市入りし、そのまま南下。30日には伊勢神宮を参拝予定です。


それ以降の予定に関しては、紀伊半島を一周して名古屋方面に向かうか、京都へ向かうか、はたまた西へ向かうかはその時次第の旅行をしてきます。

函館ナンバーの黄色いスイフトスポーツを見かけたら間違いなく私ですので、見つけた時は優しくしてください。

川南諏訪神社 (鹿児島県肝属郡南大隅町)

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川南諏訪神社 (かわみなみすわじんじゃ)



旧郷社

神紋:梶の葉

祭神:建御名方命,事代主命

例祭日:10月28日

最寄の交通機関:




日本の神社の鳥居には色々な種類の鳥居がありますが、なかなかこの神社の鳥居は珍しいかもしれない。

それは二基の鳥居が横に並んだ「並列鳥居」。

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並列鳥居があるのは鹿児島県南大隅町の諏訪神社。

平成の大合併で町名が変わっていますが、元は根占町でした。

鹿児島県は錦江湾入口の指宿港とを結ぶフェリー埠頭があり、ここから南へ行くと本土最南端の佐多岬、北へ行くと特攻隊の基地があった鹿屋などがあります。

その起点となる根占港からまっすぐ山へ向かうと正面に特徴的な並列鳥居の諏訪神社が鎮座しています。

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恐らく日本本土としては最南端の諏訪神社だと思われます。(手元の資料では)

元々、参拝する神社としてチェックをしていなかったのですが、使ってる地図に並列鳥居のことが載っていたので興味があって参拝しに行きました。



鳥居自体は平成6年竣工ということで結構新しいので、元々がこういう並列鳥居だったのかは分かりません。

ちょうど社務所も工事していたので由緒とか聞きに凸はしなかったんですけど、鳥居の扁額はどっちも諏訪神社なんですよね。

詳しく書かれているサイトさんがあったので詳しくはそちらを見ていただくとして、
http://yatsu-genjin.jp/suwataisya/suwasya2/oosumi.htm

どうやら元々は上宮と下宮が並んでいたという事が真相らしい。

イメージ的にはどっちかが◯でどっちかが×で、×の方は泥水のトラップが仕掛けられてたりって感じなんですけど、後から調べてみたら左から入って右から出るのが正しいそうです。


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見づらいですが拝殿の中には大量のよだれかけが奉納されていました。


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社殿は横から見るとこんな感じ。割りと小さめ。

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個人的には並列鳥居も気になるんですが、神社ではよくある手水舎の井筒の説明板が手書きで描かれてたのが衝撃的だったw

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服は水玉じゃないけど再現度高いw

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大原八幡宮 (大分県日田市)

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大原八幡宮 (おおはらはちまんぐう)




旧県社、豊後八社八幡、日田市総鎮守、艦内神社(巡洋艦「三隈」)

神紋:菊桐

祭神:誉田別命,息長足姫命,比売大神

例祭日:

最寄の交通機関:






大原八幡宮は大分県西部の日田市に鎮座する八幡宮。

結構規模の大きな八幡宮。豊後国(大分県南部)の八幡宮としては筆頭とされていて、豊西の総社とも言われている由緒ある神社です。

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創建は天武天皇の御代の白鳳9年(680)、靭負郷の岩松ヶ峯(現・日田市天瀬町馬原・鞍形尾神社付近とされる)に顕現された八幡大神の神勅により、時の郡司・日田鬼蔵太夫が社殿を創建したのが始まりとされています。

ついで慶雲元年(704)、社を建てて祀ったというのが大原八幡宮の前身である杉原宮である。

貞観元年(859)には、再び八幡神霊の神勅により日田郡司・大蔵永弘(おほくらのながひろ)が杉原から元宮(現・元大原神社(日田市求来里))に遷座し、延喜15年に社殿を建立。宇佐八幡宮の例に倣って相殿に息長足姫命、比売大神を奉斎し「大原八幡宮」と称するようになった。

日田の総社として郡司はもとより、国守大友氏等の篤い崇敬をうけ、承徳元年(1097)、放生会が始まる。

建久4年(1193)、九州探題・大友能直の命により鎌倉の鶴岡八幡宮の礼式に改め、豊西(豊国の西方)の総社と定めた。(豊東の総社は「柞原八幡宮」)

慶長2年(1312)に大友氏により社殿が再建。

元和10年(1624)に日田永山城主・石川主殿頭忠総により元宮原から現在地に遷宮された。(現在、旧社地には元大原神社が建つ)

また貞享4年(1687)に、代官小川氏により楼門等の建立。

現在の社殿は、郡代・揖斐氏が社殿再建の為、寛政2年(1790)に地鎮祭、同6年上棟、同12年に郡代・羽倉氏により正遷宮の末に建立された。

明治5年(1872)、県社に列せられ、昭和31年に御鎮座一千百年大祭、同48年に御遷座三百五十年大祭を斎行した。

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大原八幡宮で有名なのは仲秋祭・放生会。

承徳元年(1097)から始まった放生会は9月21日から5日間、放生祭・各種奉納行事・神楽・民謡・詩舞・剣詩・詩吟・剣道・柔道などが行われ、神輿が21日から頓宮へ神幸、25日に本宮へ還幸される。



境内右側には神楽殿、左側には社務所があります。


境内末社として大原八幡宮社殿の背後に境内向かって右側から、錦春稲荷神社、大山祇神社、日田神社、医祖神社、松尾神社、住吉神社の6社がある。

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「錦春稲荷神社」

錦春稲荷大明神略縁起
仰々稲荷大神は豊宇気姫の神と申し衣食住の神として奉斎す。
当、錦春稲荷大明神は徳川五代将軍綱吉公時代に三代将軍の水戸家後楽園錦春門内の台地に兜一頭を埋め社を建て稲荷の大神を祭祀せらる。
水戸邸が砲兵工廠となりても引き続き際しを怠らず。
昭和9年2月21日、東京より遷し奉り工廠の守護神とす。
昭和10年4月17日遷座祭挙行。昭和20年3月小倉造兵廠の主力を日田市に疎開すると共に、昭和20年7月10日日田市へ遷座さる。
昭和20年8月15日終戦により軍の武装解除とともに造兵廠も亦解散することとなりたるによって、大原八幡宮の御高志に依り同境内に神殿を新築し遷座且祭祀を依託せり。
昭和20年9月識す

という訳で、元々は東京都文京区の小石川後楽園に鎮座していたのが小倉に遷って、さらに日田市に遷座したという、すごい距離を遷座してる神社であります。

そんな由来があって錦春稲荷神社には「小倉造兵廠本部終焉の地」の碑が建っています。


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「大山祇神社」

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「松尾神社、日田神社、住吉神社、医祖神社」

境外摂社として、若八幡神社、玉垂神社、会所神社の3社。境外末社には、金刀比羅神社、興玉神社の2社がある。




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境内の奥には、殉職警察官慰霊塔、千原襖一郎君頌徳碑、包丁塚が建っています。




大日本帝国海軍の最上型重巡洋艦の『三隈』は日田市内を流れる三隈川から命名され、艦内神社は大原八幡宮からのご分霊を祀っていた。

境内には「三隈」関係の石碑などは見当たらなかった。


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・重巡洋艦「三隈」

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軽巡時代の「三隈」(昭和10年9月下旬 函館港)

「三隈」は旧日本海軍の重巡洋艦。

「最上」「三隈」「鈴谷」「熊野」の4隻からなる最上型重巡洋艦の2番艦で、日田盆地を流れる三隈川から命名された。

当時は条約制限下で重巡の保有が制限されていたため、重巡並の船体に軽巡の15.5cm砲を乗せて表向きは軽巡、いざというときには20.3cm砲に換装して重巡にすることにしたため、最上型は軽巡に付けられる河川の名前が冠されている。

この最上級4隻は第七戦隊で活躍し、特に姉妹艦4隻の中でも「最上」と「三隈」は太平洋戦争開戦以来、常に作戦行動を共にした2隻で、「三隈」の最後となったミッドウェー作戦では、最上型4隻からなる第7戦隊は、進路上の敵潜水艦を発見し緊急回頭をする際に信号の伝達の混乱から「三隈」に「最上」が衝突し、「最上」は艦首切断という損害を被る。

「三隈」の損害自体は船体に破孔があったものの軽微だったが、最上を護衛しつつミッドウェーから西方に退避中に米軍機に捕捉され「三隈」攻撃が集中、爆弾が第3砲塔を直撃したのを皮切りに連続して爆撃を受け、船速が落ち停止、爆撃により艦上構造物は全壊、左舷後部機械室が爆破され船内に火災が発生し、船体が傾斜。総員退避後に沈没した。

なお、最上型が航空巡洋艦に改造されたのはミッドウェー海戦後のことなので、三隈は史実では航空巡洋艦に改造されていない。



起工:昭和6年12月24日 三菱重工長崎造船所
竣工:1935年8月29日
排水量:11200トン
全長:200.6m
水線長:198.3m
全幅:18.45m
喫水:6.15m
馬力:154,266PS
速力:35.96ノット
兵装:(新造時)三年式60口径15.5cm三連装砲×5基15門→三年式50口径20.3cm連装砲×5基10門、40口径12.7cm連装高角砲×4基8門、61cm3連装魚雷発射管×4基、25mm連装機銃×4基8門、13mm連装機銃×2基4門
水偵:4機、射出機×2基
乗員:930名(士官70、下士官兵860)
沈没:1942年6月5日
除籍:1942年8月10日



参拝したのはまだ『艦これ』が出る前だったので、純粋に三隈の艦内神社という理由での参拝。

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ちなみに三隈はドロップしていないのである意味ドロップ祈願の記事うpだったりする。

由良神社 (京都府宮津市)

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由良神社 (ゆらじんじゃ)



住所:京都府宮津市由良宮本2362 (E1351650 N353058)

旧府社、艦内神社(巡洋艦「由良」)

神紋:五三桐

祭神:伊弉諾命,櫛御気命,誉田別命

例祭日:10月10日

最寄の交通機関:北近畿タンゴ鉄道宮津線「丹後由良駅」下車、徒歩6分






舞鶴市街を西に抜け、由良川を渡って由良川沿いに宮津方面に向かうとタンゴ鉄道の由良川橋梁が見えてくる。

これをくぐると丹後由良の市街地。清酒『白嶺』のハクレイ酒造の駐車場を通り過ぎ、少し走ると左側に少し広めの車道とその先に小さな鎮守の森が見える。

そこが由良神社だ。

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この由良神社のある由良は現在は海水浴場と酒造の街だけれど、かつては北前船の港として百人一首の「由良の戸」とも歌われ、森鴎外の『山椒太夫』の舞台となった場所とされていて、由良神社は由良港の繁栄時以前から鎮座していたと言われています。

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「国道前にある『花御所八幡・由良神社』の社号標」

元は熊野三所権現と称され、室町幕府3代将軍の足利義満が造営した京都の花の御所に鎮座していた花御所八幡宮を遷座して由良神社と称されるようになったという。

田辺藩主歴代の崇敬篤く数回の社殿修復直参代参奉幣寄進等があった。

昭和17年(1942)府社に列す。

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「拝殿」

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「本殿」

拝殿の中には由良の清酒・白嶺の酒樽が奉納されていました。

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「拝殿内にある白嶺の酒樽」


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「拝殿前の左右に鎮座する熊野神社(左)と境内社(右)」

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「由良郷土館」

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「境内左手にある社務所」


・新宮凉庭顕彰碑
境内右手の由良郷土館の前には、江戸時代の由良出身の蘭方医・新宮凉庭(しんぐうりょうてい(1787~1854)の顕彰碑が建っています。

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ここに略記をそのまま載せておきます。

贈正五位新宮凉庭先生略伝
新宮凉庭、名は碩、駆豎斉或いは鬼国山人と号し、徳川中期に最も傑出した儒医であります。天明七年三月十三日丹後の由良に生れ、青年時代蘭学に志して長崎に赴き通詞吉雄永保の塾に学び、ついで当時の蘭館長ヅーフにみとめられ、蘭医フェールケ及びバティに師事して学殖が豊かになり、帰国後京師に開業して当代随一の流行医と称せられるようになりましたが、此間蓄積した巨万の財を有意義に散ずべきことを心得「良医に国の病を治す」と云う抱負の下に経国済民の大業に手をつけ、当時打ち続く凶作のため全国到るところ餓孚(草冠に孚)が路に横たわるといった状態であっても、各藩の財政が疲弊の極に達しているため救拯の挙に出てないのをみた凉庭は、起って諸藩候に済世治保の策を献じ、先づ旧恩深き牧野家領下士民のため金穀を贈ること数度、ついで盛岡・福井両藩の請によってその財政を整理し、諸藩の学費を献するほか京都東山に私学順正書院を営んで後学の指導につとめました。後この順正書院に出入した一條相公・久我亜相、出石、鯖江、宮津、綾部などの藩侯、その他篠崎小竹・頼三樹・斉藤拙堂・梁川星巌・藤井竹外などの文人墨客の作品を集めて「順正書院記」及び「順正書院詩」が刊行されています。また凉庭の著書として知られているのは医術関係では「窮理外科則」「泰西疫論」「療治鎮言」「人身分離則」「外薬則」「外用方符」「解体則」「血論」「小児科書」「婦人科書」文芸その他に関するものには「西遊日記」「但泉紀行」「駆豎斉文鈔」及び詩鈔其他数種ありますが特に有名なのは、「破れ家のつづくり話」の上中下三巻であります。嘉永六年秋から宿痾漸く重く、翌安政元年一月九日六十八年の壽を京師に終え、遺骸は、南禅寺大授庵に葬り「順正院新開凉庭居士」と諡しました。大正四年先生生前の功により正五位を追贈されたのであります。



丹後由良というと個人的には由良川橋梁が京アニ版『AIR』で登場していたりと印象深い。

他にも、由良の酒造会社であるハクレイ酒造は『東方Project』の博麗神社の名前のモデルとも言われているので、小さな街ではあるものの舞台探訪を生業(?)としている人間には結構濃ゆい場所だったりする。

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「清酒『白嶺』『酒呑童子』などの蔵元・ハクレイ酒造」

もちろん由良川橋梁も行ったけど、ハクレイ酒造は定休日だった…。


大日本帝国海軍の長良型軽巡洋艦の『由良』は、丹後由良の由良川から命名され、艦内神社は由良神社からのご分霊を祀っていたとされる。

しかし境内には「由良」関係の石碑などは見当たらなかった。

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「由良川(由良川橋梁近くから)」


・軽巡洋艦「由良」

「由良」は旧日本海軍の軽巡洋艦。

「長良」「五十鈴」「名取」「由良」「鬼怒」「阿武隈」の6隻からなる長良型軽巡洋艦の4番艦、若狭湾に注ぐ由良川から命名された。

就役後から第三・七・八戦隊に所属し水雷戦隊・潜水戦隊旗艦として活躍し、開戦時は第五潜水戦隊旗艦として小沢治三郎中将率いるマレー攻略作戦に参加。

その後、ジャワ攻略作戦に第三水雷戦隊旗艦として船団護衛にあたり、潜水艦の雷撃で大破した「那珂」の代わりに第四水雷戦隊旗艦としてミッドウェー海戦に参加。

そして昭和17年10月25日・南太平洋海戦の前日にB-17爆撃機とドーントレス爆撃により航行不能となり「夕立」「五月雨」の雷撃及び砲撃処分とされた。

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軽巡「由良」 (1937年7月18日 上海港)

起工:大正10年(1921)5月21日 佐世保工廠
進水:大正11年(1922)2月15日
竣工:大正12年(1923)3月20日
排水量:5570トン
全長:162.15m
全幅:14.17m
喫水:4.80m
馬力:90,000PS
速力:36.0ノット
兵装:三年式50口径14cm単装砲×7基7門、八年式61cm連装魚雷発射管×4基、九六式25mm連装機銃×2基4門、13mm四連装機銃×2基4門
水偵:1機、射出機×1基
乗員:440名
沈没:1942年10月25日
除籍:1942年11月20日


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参拝したのはまだ『艦これ』が出る前だったので、純粋に由良の艦内神社という理由での参拝。

図鑑の自己紹介で、B-17とドーントレスが苦手っていうのは沈没の原因となったことからだろう。

油日神社 (滋賀県甲賀市)

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油日神社 (あぶらひじんじゃ)




旧県社、国史見在社

神紋:木瓜に二つ引

祭神:[主祭神]油日大神、[配祀]罔象女命、猿田彦命

例祭日:5月1日

最寄の交通機関:JR草津線「油日駅」下車・徒歩30分






油日神社は滋賀県甲賀市の南東部の甲賀町油日に鎮座する神社で、『油の祖神』である油日大神を祀っている。

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俗に油日大明神の名で呼ばれる油日神社は、社伝によれば用明天皇の頃に聖徳太子により創建されたと伝わる。

神体山である油日岳は油日神社から南東にあり、油脂の祖神として全国的に信仰されている。

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平安時代、日本の正史の一つ『三代実録』の元慶元年12月3日(878年1月9日)の項には「三日己巳、近江国正六位上油日神に従五位下を授けき」とある。

その平安時代には神仏習合の風により、天台宗の影響を受けたようで、境内には僧坊跡などが残されている。

中世には甲賀五十三家の氏神として崇敬が篤かったという。

明治39年(1906)県社に列格。

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毎年5月1日の油日祭では、国選択無形民俗文化財の「油日の太鼓踊り」、県選択無形民俗文化財「奴振り」の神事が行われる。

また、本殿、拝殿、楼門、および左右回廊の五棟は、室町・桃山時代の建築で、いずれも重要文化財に指定されている。

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NHKの連続テレビ小説『ごちそうさん』を見てて、疎開先の神社に既視感を感じたのでもしかしたらと思ったら、どうやら油日神社でロケが行われていたのは間違いないっぽいということで纏めてみました。

どうやら大河ドラマ『平清盛』でもロケ地として使われていたそうです。

ちなみに、自分が参拝したのは2005年。掲載した写真もその当時の写真で、いずれまた参拝しに行きたいのですがなかなか…。

青葉神社 (宮城県仙台市青葉区)

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青葉神社 (あおばじんじゃ)




旧県社、艦内神社(巡洋艦「名取」)

神紋:雪薄、九曜

祭神:武振彦命(伊達政宗)

例祭日:10月9、10日

最寄の交通機関:JR仙山線「北仙台駅」および、仙台市営地下鉄南北線「北仙台駅」下車、徒歩8分






青葉神社は仙台市青葉区にある仙台藩初代藩主・伊達政宗公を祭神として祀る神社で、社名の青葉は居城であった青葉城から付けられた。

場所は北仙台駅の西側の「北山五山」と呼ばれる寺町が集中する丘に鎮座する。

仙台市街地の国分町通りを真っ直ぐ北上して行き、突き当たった先が青葉神社の参道となる。

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「参道入口」

写真に写っているのは徒歩用の参道。車用の参道は西側にあり、モダンなコンクリート製の社務所の前に出る。

表参道を入ると一の鳥居。

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「一の鳥居(震災で倒壊。現在工事中)」

写真は2008年のもので、鳥居は東日本大震災により倒壊。現在は鳥居があった場所は立ち入り禁止のコーンが置かれていた。

階段を登って行くと途中で左、右というふうに曲がる。そして登り切るとまっすぐ先に拝殿が見える。

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元々は仙台城内に伊達政宗公を祀った社殿があったという。

明治4年(1871)の藩籍奉還の後、藩主であった伊達宗基が東京へ移るにあたって、明治6年(1873)旧藩士をはじめとする住民が、伊達政宗を祀る神社を建設する許可を宮城県に請願し、明治7年(1874)6月25日に県社に列格され、同年11月11日に落成した。

現在の社殿は昭和2年(1927)の造営。


拝殿の右側に池があり、その先に家臣の霊を祀った祖霊社が鎮座する。(先日参拝した時は工事中だったため以前参拝した時の写真)

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「祖霊社」

青葉神社には現時点では2回参拝していて、前回は若い神職の方が、先日の参拝では初老の神職の方が応対された。恐らく後の方は宮司さん、ちなみに現在の宮司さんは伊達政宗の家臣であった片倉小十郎の子孫。

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「手水舎にある龍と政宗公の像」

手水舎には多分元々あった龍の脇に政宗像が建てられていた。前回来た時にはなかったような気がする。

政宗公の像は戦国BASARAとかKOEI作品の影響もあるのかイケメンだったが、個人的には社務所の入口にあった『Wake Up,Girls!』のパンフレットが気になった。

というのもまだ見たことはないけれど『Wake Up,Girls!』の舞台にもなっているようだ。絵馬も『Wake Up,Girls!』の痛絵馬がチラホラ。

『戦国BASARA』は直接関係していないけど『Wake Up,Girls!』しかり、後述の『艦これ』しかり…。『艦これ』も名取の艦内神社の分霊元ってだけで直接は関係してないけど二次元に縁のある神社でした。

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「ちなみにこちらは仙台城跡にある政宗公騎馬像」

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・軽巡洋艦 『名取』

帝国海軍の巡洋艦「名取」は宮城県南部を流れる名取川から採られました。

名取川は仙台市西部の奥羽山脈に属する神室岳を源とし、二口温泉・秋保温泉などがある渓谷部を通り仙台平野へ、途中仙台市内を流れる広瀬川と合流し仙台湾へ注ぐ。

「名取」の艦内に祀られていたのは青葉神社の御分霊。

採用された艦名が河川の名前の場合、その流域にある著名な神社から御分霊を奉斎する事が多かったようですが、青葉神社が鎮座するのは名取川の支流である仙台市内を流れる広瀬川の流域に当たります。


軽巡洋艦・名取は長良型軽巡洋艦の3番艦として大正9年(1920)に起工、大正11年に進水・就役しました。

太平洋戦争開戦時には第三艦隊所属・第五水雷戦隊旗艦としてフィリピン攻略作戦に従事、その後蘭印作戦に転じ、昭和17年3月1日のバタビア沖海戦に参加。その後も南方海域で活躍するものの、昭和19年8月18日、フィリピン・サマール島東方海面において、米潜水艦ハードヘッドの雷撃により沈没。

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軽巡洋艦「名取」(佐世保軍港)

起工:大正9年(1920)12月14日 三菱造船長崎造船所
進水:大正11年(1922)2月16日
就役:大正11年(1922)9月15日
排水量:5.170トン(基準)
全長:162.15m
全幅:14.17m
吃水:4.80m
速力:36.0ノット
兵装:50口径三年式14cm単装砲 5基5門、40口径八九式12.7cm連装高角砲 1基2門、九六式25mm三連装機銃 2基6門、同連装機銃 2基4門、同単装機銃 2基2門、13mm連装機銃1基2門、61cm四連装魚雷発射管2基8門、二一号対空用電探1基、水中聴音機1基、110cm探照燈3基
戦没:昭和19年(1944)8月18日
除籍:昭和19年(1944)10月10日


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田名部神社 (青森県むつ市)

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田名部神社 (たなぶじんじゃ)




旧県社、北郡・下北総鎮守、艦内神社(輸送艦しもきた)

旧国郡:陸奥国北郡

神紋:向鶴

祭神:味耜高彦根命、誉田別命、宇曽利山大山祗大神、管下神社大神

例祭日:8月18-20日

最寄の交通機関:






田名部神社は下北半島の中心部、むつ市の田名部(たなぶ)地区に鎮座する神社で、下北半島の総鎮守として崇敬されている。

むつ市田名部は戊辰戦争後に会津藩が転封となった斗南藩の藩庁が置かれた場所でもある。

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田名部神社の創立年代は、元和2年(1616)に発生した火災の為詳しくは分からないものの、一番古い資料として康永4年(1341)の鰐口が残っている。

寛永12年(1635)に書かれた『盛岡城事務日記』によれば、祭神が宇都宮二荒山(現・宇都宮二荒山神社)より万民守護のため宇曽利山に飛来し、大平村荒川一本松に鎮座していたのを、22代先別当・小笠原丹後が霊夢により田名部村に動座、神領は100石を有し、海辺総鎮守・北郡総鎮守・田名部大明神と称されていたという。

かつては柳町の高台に鎮座していたが、元和2年(1616)の火災により社殿・記録等を焼失し、明神町に動座している。

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「社号標」

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「扁額」

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「社務所」

毎年8月18日から20日に田名部神社の例大祭『田名部まつり』が行われる。

田名部の5町(横迎町、小川町、柳町、田名部町、新町)がそれぞれ一番から五番の山車を曳く祭りで、県無形文化財に指定されている。

社殿と社務所に挟まれたスペースの奥には忠魂碑などの石碑が立ち並んでいました。

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建水分神社 (大阪府千早赤阪村)

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建水分神社 (たけみくまりじんじゃ)




旧府社、艦内神社(戦艦 金剛)

延喜式内社:河内國石川郡 建水分神社 (並小)

神紋:菊水

祭神:[主祭神]天御中主神,天水分神,罔象女神,国水分神,瀬織津媛神
  :[合祀]素盞嗚命,応神天皇,天照皇大神,田心姫命,伊弉諾命,伊弉冊命,市杵島姫命,天児屋根命,斎主神,思兼命,国常立尊,地水分神,中筒男尊,八幡大神,神日本磐余彦命

例祭日:4月25日

最寄の交通機関:近鉄南大阪線「富田林駅」乗換、金剛バス千早線「水分神社口」停留所下車





建水分神社は大阪府南部、金剛山山麓の千早赤阪村に鎮座する。

金剛山総鎮守、またこの地を治めていた楠木氏の氏神として崇敬されていた。

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「神社は奈良県御所方面へ抜ける国道309号線沿いにある」

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「(左)建水分神社と(右)南木神社」

別名・水分神社(すいぶんじんじゃ)とも呼ばれるが、その名の通り水を司る神を祀る。

本殿中殿に祀られているのは創造神である天御中主神だが、本殿左殿右殿に祀られている4柱は水に関係する神である。

水分神は、ハヤアキツヒコ・ハヤアキツヒメの二柱の御子神とされ、天之水分神と国之水分神の二柱があり、近畿地方、吉野水分神社など主に奈良県に多く鎮座する。


建水分神社は、第10代・崇神天皇5年(西暦前92年)に、天下饑疫(きえき)の際勅して、金剛葛城の山麓に水神を祭られたのが始まり。

元慶3年(879年)に従四位上に列格された。

河内国の豪族であった楠木家の氏神で、後醍醐天皇の勅令に依って楠木正成が水越川のほとりの下宮にあった社を移して再建したもの。

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「建水分神社・鳥居」

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「鳥居の扁額」

鳥居の扁額は、もともとは延元5年(1340年)に楠木正行公によって奉納された奉納の後醍醐天皇宸筆といわれる木額の表面の文字が摩滅した為に、宝永2年(1705年)金銅製にて模造されたもの。文字は時の前大納言・葉室頼孝によるもの。

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参道から社殿まで樹木が鬱蒼としていて正面からは社殿の全体像が見えない。

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また通常は参拝できるのは拝殿前までなので重要文化財に指定されている本殿は拝殿脇の木々の間から辛うじて見ることが出来る程度。

本殿は、建武元年(1334年)に後醍醐天皇の勅命により、楠木正成公が造営されたもの。

本殿は中殿(春日造)・左殿(流造)・右殿(流造)の三殿で構成されており、三殿は渡り廊下でつながっている。

中殿には天御中主神、左右両殿には天水分神(左殿右室)、国水分神(右殿左室)、罔象女神(左殿左室)、瀬織津媛神(右殿右室)がそれぞれ祀られている。

神社建築としては、全国で唯一の形式で明治33年(1900年)に国宝(いわゆる旧国宝)、文化財保護法が施行された昭和25年(1950年)に重要文化財に指定された。


拝殿の左側には末社の金峯神社が鎮座している。

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「末社・金峯神社」




・南木神社 (なぎじんじゃ)

祭神:楠木正成(大楠公)


建水分神社の境内右側に鎮座する摂社の南木神社は、後醍醐天皇の「建武の新政」に功のあった楠木正成公を祭神として祀っている。

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「摂社・南木神社」

延元元年(1336年)に正成公が湊川で戦死されると、翌・延元2年(1337年)に後醍醐天皇自ら楠木正成公の尊像を彫り、建水分神社の境内に祀ったのが始まりで、楠木正成公を祭神として祀る日本最古の神社です。

その後、後醍醐天皇の皇子・後村上天皇より「南木明神」の神号を賜った。

現社殿は昭和15年(1940年)に竣工したもので、社殿向かって右前に建てられている由緒標は陸軍大将・荒木貞夫男爵の筆によるもの。

以下はその南木神社拝殿前にある由緒標の碑文。

南木神社
南木神社ハ楠木正成公ヲ祀ル當社ノ由緒ニヨレハ延元元年五月公ノ湊川ニ戦死スルヤ後醍醐天皇大タク御悼惜アラセラレ翌年御親ラ公ノ木像を刻マセ給ヒテ公ノ産土神タル當社ノ神域ニ祀ラシメ給ヘリ
之レ本社ノ創始ニシテ南木明神ノ御神號ハ後村上天皇ヨリ賜ハリタルナリト

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・戦艦 金剛との関係

帝国海軍の戦艦「金剛」の艦内には金剛山総鎮守である建水分神社の御分霊が奉斎されており、大阪港に入港した際には「金剛」乗員が参拝に訪れていたという。

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「金剛」は金剛型巡洋戦艦の一番艦として英国ヴィッカース社、バロー・イン・ファーネス造船所で明治44年(1911年)1月17日に起工、明治45年(1912年)5月18日に進水した。

艦名は大阪府と奈良県の県境にある金剛山に由来する。

巡洋戦艦として建造されたため命名基準が戦艦に付けられる旧国名ではなく、一等(重)巡洋艦と同じ山岳名が基準となっている。

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「金剛山(奈良県御所市方面より撮影)」

「金剛」は世界ではじめて36センチ砲を搭載した戦艦で、日本が外国に技術輸入のため発注した最後の主力艦。

昭和6年に巡洋戦艦の種別が無くなり戦艦に類別され、同年に第一次改装、昭和12年に第二次改装が行われ、煙突が3本から2本に、30ノットの高速戦艦へと生まれ変わった。

大戦時には第三戦隊第二小隊として3番艦「榛名」と共にシンガポールのイギリス海軍東洋艦隊のプリンス・オブ・ウェールズ、レパルスの抑えとしてマレー方面に進撃。昭和17年6月のミッドウェー作戦、8月にはガダルカナル島攻略戦、10月には榛名と共にガダルカナル島のヘンダーソン飛行場を砲撃した。

昭和19年10月のレイテ沖海戦には栗田艦隊の一艦として参加、サマール島沖で米海軍駆逐艦2隻、護衛空母「ガンビア・ベイ」を撃沈している。

昭和19年11月21日、ブルネイ泊地から内地へ帰投中、米潜水艦シーライオンの雷撃によって台湾・基隆北西海域で沈没。潜水艦に沈められた唯一の日本の戦艦である。

連合国側の評価では最古参ながら日本海軍戦艦の最高殊勲艦とされている。

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尚、ここで紹介した「金剛」は2代目。初代は明治10年(1877年)に進水したコルベット艦「金剛」で、和歌山県樫野崎で遭難したトルコ軍艦・エルトゥールル号の生存者を「金剛」と2番艦「比叡」(同じく初代)がトルコへ送り届けた。

同じく金剛山に由来する艦名の海上自衛隊の護衛艦「こんごう」は3代目。艦内には建水分神社ではなく、金剛山山頂に鎮座する金剛山葛木神社が祀られている。

札幌伏見稲荷神社 (北海道札幌市)

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札幌伏見稲荷神社 (さっぽろふしみいなりじんじゃ)




旧郷社

旧国郡:石狩國札幌郡

神紋:右三つ巴

祭神:宇迦之御魂神、大山祇命、大国主命、事代主命、天鈿女命

例祭日:9月9日

最寄の交通機関:地下鉄円山駅から市バス西12・環50で慈啓会前下車 啓明線大通から市バス西53で啓明ターミナル下車






札幌伏見稲荷神社は札幌市街の南西、藻岩山麓の伏見に鎮座しています。

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「藻岩山麓通に面した一の鳥居」

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「一の鳥居前の社号標」

一の鳥居は藻岩山麓通に建っていて参道もここからという感じにも見えますが、実際は鬱蒼とした林の下へ更に伸びていて、環状通、更には米里行啓通まで伸びています。この米里行啓通と伏見稲荷神社参道がつながる幌西自転車公園にも伏見稲荷神社の社号標が建っています。

創建は明治17年(1884)4月、野村茂(元官幣大社 札幌神社 禰宜)が発願し、京都の伏見稲荷神社を勧請し、御分神を奉戴して札幌区南五条東一丁目にお祀りしたのが始まり。

明治31年(1898)3月、琴似村十二軒に遷座し、更に明治40年(1907)2月藻岩山麓の現在地に遷宮しました。

現在地の地名が伏見と呼ばれるようになったのもこの伏見稲荷神社が由来となっています。

大正8年村社に列格、昭和16年郷社に昇格になりました。

社殿は2014年に放送されたTVアニメ『いなり、こんこん、恋いろは。』にも登場します。
「いなり、こんこん、恋いろは。」舞台探訪 -京都伏見以外-

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「扁額」

社殿の右側には荒魂社と大山積大神の石碑が、

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「境内社の荒魂社と大山積大神の石碑」

手水舎の近くには願い事が叶うという願石があります。

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「願石」

駐車場の脇には、「阿由葉宗三郎翁之像」「上田一徳翁之碑」などの石碑や祠がありました。

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「上田一徳翁之碑」


・阿由葉宗三郎翁之像

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阿由葉宗三郎氏(文久二年生)は、昭和八年没するまで、明治、大正、昭和の三代にわたり、自治組織である札幌市火災予防組合連合会の会長として各種の火災予防活動を実践し、今日の防火防災事業及びその精神の基礎を築いた先駆者である。同氏の胸像は、昭和九年九月建立されたが、第二次世界大戦時の金属回収で供出され、台座を残すのみとなっていた。ここにその偉業をたたえ、その理想の実現を期して、この像を復活建立す。
昭和五十九年三月
阿由葉宗三郎氏胸像復活建立期成会
会長 朝川 利雄


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