旧郷社
旧国名:渡島国亀田郡
神紋:左三つ巴
祭神:誉田別命
例祭日:9月20日
最寄の交通機関:JR函館駅から車で10分
亀田八幡宮は北海道函館市に鎮座する神社。
函館では通称「カメハチ」とも呼ばれ、函館八幡宮と並んで有名な神社です。
創建は明徳元年(1390)、越前国敦賀郡(現・福井県敦賀市)に鎮座する気比神宮より、八幡大神の御分霊を同国の笠原右源太がこの地に奉遷。その後、陸奥国の豪族、安東政季と共に蝦夷地へ来た河野政通が函館にその地名の由来となる館を造り、笠原右源太の孫・笠原左衛門を普請奉行として召抱え、それより河野氏から篤く崇敬されるものの、松前藩の祖先・武田信広が現在の上ノ国町にある勝山館に居城し、河野家との戦争状態となり祭祀営繕等も不能の状態となった。
(由緒では武田・河野の間に戦乱とあるものの、他の資料には同様の記述は見当たらない。)
蝦夷地大乱の時、松前藩4代藩主・慶広が南部大澗より渡来の智楽院(藤山家の祖先)に七飯村藤山頂上で必勝祈願をさせ大勝し、その時アイヌ勢が七重浜の柏の木々、草木を軍勢と勘違いし降参したのは八幡宮の加護と、信広の大弓半弓を奉納、正月6日の法楽神事を仰せ付け、七重浜の柏樹林の伐採を禁じ、松前藩の祈願所に定めた。
慶長8年(1603)10月本殿拝殿を建立(現・神輿殿、文久2年(1862)8月に改築)。毎年祭祀料玄米25俵、各村の役納を仰せ付け大祭毎に代参。
明治元年、蝦夷総督・清水谷公考が参拝。戊辰戦争(箱館戦争)では榎本武揚・大鳥圭介が八幡宮において降伏を誓約。
明治2年8月と12月、侍従・東久世通禧が参拝。明治9年に郷社に列格。明治15年に有栖川宮幟仁親王の御真筆が奉納。
明治41年に神饌幣帛料供進神社に指定された。
かつて拝殿として使用されていた神輿殿には箱館戦争当時に受けた銃弾の跡が今でも残っています。