旧県社
旧国郡:周防國都濃郡
神紋:左三つ巴,三つ盛り亀甲に花菱
祭神:[主祭神]応神天皇
:[配祀]田心姫命,湍津姫命,市杵島姫命,神功皇后
:[配祀]田心姫命,湍津姫命,市杵島姫命,神功皇后
例祭日:4月10日,9月第4日曜
最寄の交通機関:JR山陽本線「新南陽駅」下車、徒歩12分
山崎八幡宮は山口県周南市(旧新南陽市)の永源山公園の麓に鎮座する神社。
「山陽本線に掛かる跨線橋から真っ直ぐ神社へ伸びる道。奥の山は四熊ヶ岳(左)と法師ヶ岳(右)」
「参道入口。神社の前を山陽道が横切る。」
創建は和銅2年(709)8月に宇佐神宮より御分霊を新南陽市富田の河内にある神室山に祀ったのが始まりとされる。
宝亀元年(770)11月に山崎の現在地に遷座し、最初「江宮」(えのみや)と称した後に神仏習合の時「壮寺八幡宮」と改称する。
江戸時代には徳山藩歴代藩主の御祈願所として藩主の社参、代参がたびたびなされ深く崇敬されてており、徳山藩内の二大崇敬社として「武の神」の遠石八幡宮に対して「文の神」の山崎八幡宮として近隣の氏神として信仰された。
江戸時代の現在の山口県域の寺社について纏めた『防長寺社由来』には西国七社明神のうちの一つとされている。
ちなみにこの西国七社明神についてはその「西国」の範囲がどの範囲なのかがはっきりせず、長門・周防
国の範囲なのか、もっと広い範囲での七社なのかが分からないという話だった。
国の範囲なのか、もっと広い範囲での七社なのかが分からないという話だった。
元治元年(1864)に山崎八幡宮に改称。
明治4年に郷社、昭和5年に県社に列格された。
「神社の石段から新南陽市街。奥に見えるのは東ソーの工場群。」
「両側の石柱に書かれている文字は寺内正毅による揮毫。」
「神門」
「拝殿」
「本殿」
山崎八幡宮からさらに登って行くと新南陽護国神社(永源神社、富田護国神社とも)が鎮座しており、その先が永源山公園で、新南陽のランドマークでもある「ゆめ風車」が建っています。
御朱印の墨書は印刷したものではあるものの、徳山藩最後の藩主である毛利元蕃の社名の揮毫をそのまま印刷したもので、ただPCのフォントを使って印刷した御朱印と違ってかなり良い。