別格官幣社、別表神社
旧国郡:肥前国佐嘉郡
神紋:鍋島杏葉
祭神:鍋島直正,鍋島直大
例祭日:10月12日
最寄の交通手段:
佐嘉神社は佐賀県佐賀市中心部に鎮座する、佐賀藩主・鍋島直正、鍋島直大を祀る神社で旧別格官幣社、現在は神社本庁の別表神社に指定されている。
「社号標」
神社が鎮座するのは佐賀市中心部、佐賀県庁などがある佐賀城跡のすぐ北側に祭神である鍋島家の居城だった佐賀城を望むように南向きに鎮座する。
佐賀藩主・鍋島家の一族を祀った現在の佐嘉神社の境内社・松原神社をその前身として、幕末の名君、明治維新に功のあった鍋島直正、その子の直大を主祭神として祀る。
佐嘉神社の創祀は昭和8年(1933年)、それまで江戸時代に創建された松原神社の南殿に祀られていた鍋島直正命を祭神として「別格官幣社佐嘉神社」が造営され、昭和23年(1948年)10月9日に同じく南殿に祀られていた鍋島直大命を合祀した官国幣社の中ではかなり新しい神社。(松原神社については後述)
祭神の鍋島直正(文化11年-明治4年(1815年-1871年))は佐賀藩・10代藩主で、天保元年(1830年)に17歳で襲封以来、藩政改革や西洋の文物を取り入れ、砲台や日本で初めて反射炉を建設し西洋式大砲を自藩で製造するなど殖産を勧め、幕末から明治新政府に至るまで重要な役割をした「薩長土肥」の藩として明治維新に尽力した。
同じく祭神の鍋島直大(弘化3年-大正10年(1846年-1921年)は佐賀藩第11代藩主(最後の藩主)。鍋島直正の次男。戊辰戦争の際には明治新政府側として佐賀藩兵を率いて指揮を執り、明治政府では駐イタリア王国特命全権公使、元老院議官、宮中顧問官、貴族院議員等を歴任した。
●境内社
・松原神社 (まつばらじんじゃ)
祭神:[北座]龍造寺隆信、龍造寺政家、龍造寺高房
:[南座]鍋島清久、鍋島直茂、鍋島直茂室彦鶴姫、鍋島勝茂
:[南座]鍋島清久、鍋島直茂、鍋島直茂室彦鶴姫、鍋島勝茂
神紋:十二日足、鍋島杏葉
佐嘉神社の前身がこの松原神社である。
元々は佐賀城の前身を村中城といい、この地は龍造寺氏が治めており、鍋島氏は龍造寺氏の家臣であった。
しかし天正12年(1584年)の島津家との「沖田畷の戦い」で『肥前の熊』と呼ばれた龍造寺隆信が戦死すると、その子・龍造寺政家の補佐役として鍋島直茂が実権を握り、その後秀吉の命により龍造寺政家が隠居させられ、その子の龍造寺高房が家督を相続した事により実権を掌握、慶長12年(1607年)に高房・政家の死去により龍造寺宗家は断絶し、鍋島直茂が領地を継承した。
現在の松原神社に祀られているのは、旧主君の龍造寺隆信・政家・高房の三代と、当時の家臣であった鍋島清久(直茂の祖父)、直茂、彦鶴姫(直茂の正室・陽泰院)、勝茂(直茂の子・初代藩主)である。
現在の松原神社は一つの社殿だったが、かつては北殿・中殿・南殿と別れており、それぞれが違う歴史を持っている。
「日峯大明神の扁額」
・松原神社 中殿
安永元年(1772年)6月1日に鍋島直茂命を祀り創建され「日峯大明神」と称していたのを、文化14年(1817)9月に鍋島清久命、直茂公室彦鶴姫命を合祀し、さらに明治5年(1872年)に初代藩主・鍋島勝茂命を合祀し「松原神社」と改称。後に北殿・南殿が造営される。
・松原神社 北殿
延享2年(1745年)正月、佐賀城内に龍造寺隆信命、政家命、高房命を奉祀したのが始まりで、天保5年(1834年)佐賀郡北山小川村(現・佐賀市大和町)に神殿を造営遷座し「敷山社」と称していたのが、明治6年(1873年)10月9日、松原神社に神殿を造営遷座され「松原神社 北殿」と改称。
・松原神社 南殿
明治6年(1873年)に松原神社に南殿を造営し、10代藩主・鍋島直正命、つづいて大正12年(1912年)に11代藩主・鍋島直大命が合祀されました。昭和8年、佐嘉神社を造営、鍋島直正命を「別格官幣社佐嘉神社」御祭神として奉祀、昭和23年10月9日に鍋島直大命を合祀されたことに伴い松原神社南殿は無くなる。
その後、昭和36年4月1日に佐嘉神社と松原神社は運営統合され、昭和38年に佐嘉神社御鎮座三十年式年大祭記念事業として松原神社並びに佐嘉神社東神苑を合一整備、松原神社御神殿・中殿・北殿を合一、一殿二座に改築し現在に至る。
松原神社の神門の前には白磁製の灯籠と大理石製の手水鉢が奉納されている。
手水鉢は明治4年3月に直茂公御船手中により奉納され、傷みが激しくなってきたため平成16年に移設されたもの。
「灯籠」
白磁製の灯籠は嘉永3年(1850年)8月に奉納され、平成16年に修復後移設された。
「手水鉢」
松原神社の御朱印は佐嘉神社で戴くことができる。
・松根社 (まつねしゃ)
祭神:古川松根
祭神の古川松根命は文化10年(1813年)10月に佐賀藩邸での生まれ。その翌年12月に同じ邸内で鍋島直正公が生れており、幼少から晩年まで側近として仕えた。
明治4年(1871年)1月21日、東京麹町永田町の直正公終焉の館内にあった舎宅にて殉死。
「礼道・芸道・学問の神」として信仰されている。
松根社の前には「純忠之碑」が建立されている。
「純忠之碑」は題を佐賀藩11代藩主・鍋島直大の篆額、撰文は久米邦武、書は相良頼善によるもので、明治23年(1890年)に、鍋島家の墓所がある東京都港区元麻布にある賢崇寺境外の直正墓所入口に建立された。
祭神の古川松根が直正に殉死する前日のなどが記されている。平成10年の墓所改葬に伴い現在地に移設された。
佐嘉神社の境内には他にも松原稲荷神社、松原恵比須神社、佐嘉荒神社、松原河童神社、松原梛木社があり、佐嘉神社と松原神社と松根社を含めて「八社詣で巡り」が行われています。
自分が参拝したときは松原梛木社は入っておらず「七社詣で」だったのだが、増えた…w
ちなみに当時は急いでいたのと車が半分故障状態でまともにクラッチが切れない状態だったこともあり境内社の多くは参拝せず…落ち着いて参拝ができなかった…