旧郷社
延喜式内社:下総國相馬郡 蛟蝄神社(小)
神紋:左三つ巴、五三鬼桐
祭神:[主祭神]弥都波能売命
:[合祀]波迩夜須毘売命,倉稲魂命,須佐男之命,菅原道真,誉田別命,
:[合祀]波迩夜須毘売命,倉稲魂命,須佐男之命,菅原道真,誉田別命,
例祭日:旧9月14日
最寄の交通機関:常磐線「取手駅」下車、大利根交通バス立崎車庫行き「立木」停留所下車徒歩5分
蛟もう神社は、利根川の北側、茨城県北相馬郡利根町に鎮座する式内社で、通称・文間明神。「門の宮」と「奥の宮」の2社がある。
「奥の宮参道入口。道をまっすぐ行くと門の宮がある。」
「もう」は特殊漢字の為、パソコンによっては表示されないが、虫へんに網のつくりを合わせた「虫罔」という字で「もう」と読む。
正式には「蛟蝄(みつち)」神社であり、古くは「延喜式神名帳」、最近では昭和37年の「神社名鑑」にも「みつち」と書かれている。
「蛟(みずち)」は水中に棲む龍を指し、祭神も水の神である「ミヅハノメ」(弥都波能売神・罔象女神・水波能売命とも書く)の神を祀る。
「奥の宮参道石段」
・関東最古の水神を祀る
創建は孝霊天皇3年(西暦前288年)に、現在の門の宮の場所に水の神様の罔象女大神を祀ったのが始まりといわれており、文武天皇2年(698年)、土の神様の埴山姫大神を合祀した。
その後、時期は不詳なものの、水害や民家が近いという理由で社殿を現在の奥の宮に場所に遷座。元の場所にあった社殿は氏子崇敬者の声から取り壊しをせず、御祭神の御魂を分祀し「門の宮」としてお祀りすることになった。
延長5年(927年)に編纂された『延喜式』の「延喜式神名帳」には下総国内の式内社11社の1社として「下総國相馬郡一座小社蛟蝄神社(みつちじんじゃ)」と記載されている。
慶長3年(1598年)8月、布川城主・松平信一(後の土浦藩初代藩主)により増修。同9年3月、将軍・徳川家康が五十石を寄進。
享保元年(1716年)、正一位に列格。
明治4年(1871年)7月、郷社に列格。
「石鳥居と参道」
「拝殿と授与所(右)」
「拝殿」
「拝殿内部」
「本殿」
「奥の宮境内」
「本殿と拝殿」
史跡案内 蛟蝄神社周辺
蛟蝄神社は孝霊天皇三年(前二八八)に水神の弥都波能売命、文武天皇二年(六九八)に土神の波邇夜須毘売命をまつったのが、そのはじまりと伝えています。記録にあらわれた最初は、延喜五年(九〇五)に編集を開始した『延喜式』の神名帳で、「相馬郡一座蛟蝄神社」と書かれています。蛟蝄の名は、周囲が流れ海であったころの台地の姿が、水を分けて進む水蛇に似ていたためといわれています。門の宮のある所は、縄文後晩期貝塚(前二五〇〇~前三〇〇)で、そうした古代のありさまをしのばせます。同時にこの貝塚は全国的にみても貴重な遺跡として大切にされています。門の宮の社殿は慶長三年(一五九八)に布川藩主松平信一が再建したという記録と元禄十一年(一六九八)再造営の棟札が残されています。奥の宮は元禄十六年に再建されました。簡素なつくりで、彫刻でかざられた門の宮と対象的な建築物です。蛟もう神社には日本武尊が参拝したという伝説があり、近くに弟橘姫の櫛塚や舟形山があります。また周辺には史跡や伝説が数多く残されています。
昭和五十五年三月 利根町教育委員会
文化財保護審議委員会
蛟蝄神社は孝霊天皇三年(前二八八)に水神の弥都波能売命、文武天皇二年(六九八)に土神の波邇夜須毘売命をまつったのが、そのはじまりと伝えています。記録にあらわれた最初は、延喜五年(九〇五)に編集を開始した『延喜式』の神名帳で、「相馬郡一座蛟蝄神社」と書かれています。蛟蝄の名は、周囲が流れ海であったころの台地の姿が、水を分けて進む水蛇に似ていたためといわれています。門の宮のある所は、縄文後晩期貝塚(前二五〇〇~前三〇〇)で、そうした古代のありさまをしのばせます。同時にこの貝塚は全国的にみても貴重な遺跡として大切にされています。門の宮の社殿は慶長三年(一五九八)に布川藩主松平信一が再建したという記録と元禄十一年(一六九八)再造営の棟札が残されています。奥の宮は元禄十六年に再建されました。簡素なつくりで、彫刻でかざられた門の宮と対象的な建築物です。蛟もう神社には日本武尊が参拝したという伝説があり、近くに弟橘姫の櫛塚や舟形山があります。また周辺には史跡や伝説が数多く残されています。
昭和五十五年三月 利根町教育委員会
文化財保護審議委員会
奥の宮の東側500mほどの所に笠脱沼という沼がある。
「笠脱沼」
むかし、大田羅の神(いわゆるダイダラボッチ)がこの地で休憩したときに置いた笠の跡が沼になったのだという。
なお、この笠脱沼の水で、例大祭(ばかまち)の湯立て神事が行われています。その他にも、沼から龍神様が舞い上がって神社のほうに向かわれたという逸話もあり、神社の授与品の「龍神御守」のデザインはこの伝説を図案化したものです。(この龍神御守と神社の御札を頂きました。「龍神御守」や「うまく行く守り」などの御守は蛟蝄神社オリジナルのデザインだとか。)
2014年現在、奥の宮境内は造営中で、写真の拝殿は取り壊され新しい拝殿が建設中。本殿は後方に移築したらしい。
拝殿は老朽化していたのだろうけど味のあるいい拝殿だっただけに残念。新しい拝殿はもう少し大きな拝殿になるようだ。
ちなみに授与所や社務所があるのは奥の宮の方で、御朱印もこちらで頂いた。
「こうもう」の豪快な字体で気持ちがいい。
奥の宮へのアクセスは車で神社の裏手にある「老人ホームやまなみ園」へ向かい、そのまま老人ホームの駐車場と玄関前を通過して行くと細い交差点にぶつかる。そこを左へ曲がると車を停めるスペースが有り、その先が奥の宮の境内。南側からアクセスは道が細く、すごく鋭角で曲がりきれないくらいのカーブになっているので、老人ホームからのアクセスがベスト。
一方、蛟もう神社・門の宮は、奥の宮から西に700mほど行った所に鎮座する。
社殿の立っている部分が小高い丘のようになっているが、実は立木貝塚という史跡の上に鎮座している。
「門の宮(立木貝塚)」
「門の宮・拝殿」
「門の宮・本殿」
門の宮の拝殿内には「正一位文間大明神」の扁額や、絵馬から飛び出して稲を食べることから手綱を描き加えたら絵馬から出歩くことは無くなったという狩野元信作の「繋ぎ馬図」が奉納されています。
また、門の宮の鎮座している場所は立木貝塚で、拝殿前の地面にはシジミくらいの大きさの貝殻が沢山落ちていました。
利根町指定遺跡 立木貝塚
この周辺は「立木貝塚」といわれる縄文時代後晩期の遺跡です。
縄文時代には、集落の周りの斜面や窪地などにゴミが捨てられていました。特に海に囲まれていたこの辺りでは貝殻がよく捨てられ、馬の蹄のような形をした「貝塚」として今も残っています。
この遺跡は、古くから知られておりましたが、正式に学会で紹介されたのは明治二十八年のことです。そのため、当時多くの採集家が小発掘を試み、その出土品は各地に分散しています。学術調査を最初に行ったのは、昭和三十七年の明治大学考古学研究室です。この調査では、縄文時代後期後半から変質し始めた関東地方の文化に、東北地方的な文化の流入が始まったことを証明するなど、相応の成果を納めました。
そして、この遺跡を全国的に有名にしたのは、土偶、土製耳飾、貝輪、骨角器などの「珍品」といわれる遺物が豊富に出土することでした。特に土偶は、全国でも最多出土遺跡の一つとして知られるほどです。
土偶は、祭礼や儀式に使われていたという説がありますが、今でも、この遺跡の上に蛟蝄神社が建っているのは歴史の流れを感じさせます。
利根町教育委員会
この周辺は「立木貝塚」といわれる縄文時代後晩期の遺跡です。
縄文時代には、集落の周りの斜面や窪地などにゴミが捨てられていました。特に海に囲まれていたこの辺りでは貝殻がよく捨てられ、馬の蹄のような形をした「貝塚」として今も残っています。
この遺跡は、古くから知られておりましたが、正式に学会で紹介されたのは明治二十八年のことです。そのため、当時多くの採集家が小発掘を試み、その出土品は各地に分散しています。学術調査を最初に行ったのは、昭和三十七年の明治大学考古学研究室です。この調査では、縄文時代後期後半から変質し始めた関東地方の文化に、東北地方的な文化の流入が始まったことを証明するなど、相応の成果を納めました。
そして、この遺跡を全国的に有名にしたのは、土偶、土製耳飾、貝輪、骨角器などの「珍品」といわれる遺物が豊富に出土することでした。特に土偶は、全国でも最多出土遺跡の一つとして知られるほどです。
土偶は、祭礼や儀式に使われていたという説がありますが、今でも、この遺跡の上に蛟蝄神社が建っているのは歴史の流れを感じさせます。
利根町教育委員会
以下、余談…。
実は蛟もう神社に参拝した理由は『みずのかけら』というPCゲームの影響です。
というのもゲーム内で登場する神社が「水地神社(みずちじんじゃ)」で祭神が蛟(みずち)。
そういう関係からファンディスクでは蛟もう神社が紹介されており、「蛟」との関係と例大祭の「ばかまち」(ヒロインの名前が「まち」であることから)が取り上げられていました。(背景のモデルは福島県喜多方市の新宮熊野神社)
ちなみにゲーム内で登場する「葉月」という女の子は水神で蛟ということなので弥都波能売命なんですよきっと。