住所:北斗市茂辺地
神紋:
祭神:倉稲魂命
例祭日:7月10日
最寄の交通機関:JR江差線「渡島当別駅」下車、徒歩30分、函館バス小谷地系統「灯台入口」下車、徒歩1分
函館から国道228号線を松前方面へ向かうと、茂辺地を過ぎ2km程の葛登支岬灯台の手前にペンションがある。
葛登支稲荷神社はこのペンションに入る道の先に鎮座する。
元々は個人で祀っていた小さい祠で、現在の神社も神社と言うよりかは祠という感じの大きさではあります。
函館から来るまで約四〇分、木古内に向かって海岸線を走る。函館湾は湖のように静かな佇まいを見せていたかと思うと、葛登支の岬をかわすと、白い波が牙を剥くような時化であったりする。港に出入りする連絡船やフェリーが函館山を背景にして行き交う景色は、絵画のように美しい。その葛登支灯台の少し手前に、丘を削り取ったような台地が道の右手にある。気を付けないと見逃してしまうが、杉の木が五、六木生えている。その根元に、小さな古びた祠がある。ヤマゼンの稲荷様だ。
上磯の山本多五右衛門という網元が、茂辺地の日方泊に漁場を開いたのは明治の中頃らしい。ここの漁場での漁は余りパッとせず、葛登支の沖に移した。番屋が建っていた所は、函館ドックがつくられたとき、当別から石垣の石を切り出したが、石垣の裏に埋め込む土砂を取り、川崎船で運び出した跡地だが、この時、作業中に山が崩れ、何人かの犠牲者が出たため、供養のために塚を建てたものだという。
時代は変わり、多五右衛門から何人か経営者が変わり、昭和に入って、函館のヤマゼン・高村善太郎となった。この人は魚の行商をしながら財をなし、その資金を基に漁場の開発を手がけ成功したわけだが、これには富山県から広浜貞次郎という船頭を迎え、従来の漁法にない新しい建網漁法を導入したという。しかし、広浜式漁法を取り入れるまでには、網元と船頭との間に激しい議論と反目があり、遂に網元が折れ、漁場での最大の行事、網下ろしの日を迎えた。もし、自分の開発した漁法が成らず魚に逃げられたなら?船頭は自分の家に伝わる龍神様に願をかけ、初漁に挑んだ。なんという好運か、天は無名の船頭に味方したのだ。海峡中の魚族が一度に押し寄せ大量に沸いた。新しい番屋も建ち、起こし船も建造された。船頭が願主となり、茂辺地の磯谷雄次郎が船材を集めて造ったのがヤマゼンの稲荷様だという。
歳月は移り、番屋も無く、漁場も無く、ひとり稲荷様だけが朽ちて残った。
葛登支稲荷神社の由来
明治の中頃、上磯の網元山本多五右衛門が茂辺地の漁場を当別の葛登支沖に移した。昭和になって漁場経営者が山善(屋号)高村善太郎に替わりました。高村は屋号を(ヤマゼン)といった。
漁場を富山県出身の広浜貞次郎船頭にまかせた。貞次郎は新しい建網漁法を導入し大漁にわいた。
信仰心の厚い貞次郎が願主となり、茂辺地の磯谷雄次郎が船材で祠を建立し、魚場の安泰を祈願しました。地元民は網元の屋号で「ヤマゼンの稲荷様」と呼んだが、長年無人状態ですっかり朽ち果てたのを哀しんだ新地主の工藤忠孝が平成4年、上磯地方史研究会とたずさえ現在地に遷宮修復しました。毎年7月10日、葛登支稲荷神社奉賛会により祭礼が挙行されています。
また、三木露風の歌碑が建立されています。
平成23年3月 北斗市教育委員会
明治の中頃、上磯の網元山本多五右衛門が茂辺地の漁場を当別の葛登支沖に移した。昭和になって漁場経営者が山善(屋号)高村善太郎に替わりました。高村は屋号を(ヤマゼン)といった。
漁場を富山県出身の広浜貞次郎船頭にまかせた。貞次郎は新しい建網漁法を導入し大漁にわいた。
信仰心の厚い貞次郎が願主となり、茂辺地の磯谷雄次郎が船材で祠を建立し、魚場の安泰を祈願しました。地元民は網元の屋号で「ヤマゼンの稲荷様」と呼んだが、長年無人状態ですっかり朽ち果てたのを哀しんだ新地主の工藤忠孝が平成4年、上磯地方史研究会とたずさえ現在地に遷宮修復しました。毎年7月10日、葛登支稲荷神社奉賛会により祭礼が挙行されています。
また、三木露風の歌碑が建立されています。
平成23年3月 北斗市教育委員会
住所的に言えばギリギリ茂辺地に属している場所ではありますが、すぐ近くに葛登支岬灯台があり、隣の当別には日本で最初の修道院であるトラピスト修道院(灯台の聖母トラピスト大修道院)があります。
「夕やけこやけの赤とんぼ」で始まる童謡『赤とんぼ』の作詞をした三木露風がこの当別の地に滞在し、この地で故郷の情景を思い浮かべながら『赤とんぼ』の詞を書いたと言われています。
そのトラピスト修道院に在住していた頃に「トラピスト歌集」に収められている葛登支岬灯台を詠んだ歌碑が葛登支稲荷神社にあります。
「はるかなる 岬の上に立ちにける 白き燈台 日に輝けり」 三木露風 |
「三木露風歌碑」
この三木露風の歌碑の建立を始め、朽ちていくばかりだった当別の寿楽園の再整備、そして葛登支稲荷神社の再建に尽力されたのが、神社前にあるペンションを経営されていた工藤忠孝氏でありました。
ペンションに併設されている喫茶店内部に工藤忠孝氏の説明文がありましたのでここに載せておきます。
工藤忠孝氏をたゝえる
大正四年十一月二日、青森県東津軽郡蟹田町字小国の代々造材業を営む工藤家に生まれ十六才で祖父や父と共に樺太で林業に従事した。青森商業高校を卒業後、帝国陸軍に入隊し大陸に転戦、負傷にめげず陸軍伍長で終戦を迎えた。今日に至る氏の事業の発展には実にこの戦友達の尽力が大きかったと云う。
昭和五十二年商用で来町、明治期の文豪島崎藤村に係わる函館の豪商秦貞三郎氏が造園した寿楽園の荒廃を嘆き、その復興に着手した。
十有余年の歳月と私費を注ぎ込み、往時の名園を蘇らせた功績は万人の賞賛を浴びた。その後、共和蠅琉豬錣発生、断腸の思いで寿楽園を去り、当所に列車ペンションききょうを開業したおり、老朽寸前の稲荷堂を上磯地方史研究会と連携して再建し葛登支岬稲荷奉賛会を設立し例祭を挙行して来たが平成十五年一月二十三日、志半ばにして病没した(行年八十八才)。
氏は生前、三木露風の歌碑を建立する夢を持ち続けていた。有志相集い氏の遺志を敬重しこゝに石碑を建立した。
平成十五年七月吉日
発起人 葛登支稲荷奉賛会 会長 加藤哲恵
文 選 上磯地方史研究会 会長 落合治彦
大正四年十一月二日、青森県東津軽郡蟹田町字小国の代々造材業を営む工藤家に生まれ十六才で祖父や父と共に樺太で林業に従事した。青森商業高校を卒業後、帝国陸軍に入隊し大陸に転戦、負傷にめげず陸軍伍長で終戦を迎えた。今日に至る氏の事業の発展には実にこの戦友達の尽力が大きかったと云う。
昭和五十二年商用で来町、明治期の文豪島崎藤村に係わる函館の豪商秦貞三郎氏が造園した寿楽園の荒廃を嘆き、その復興に着手した。
十有余年の歳月と私費を注ぎ込み、往時の名園を蘇らせた功績は万人の賞賛を浴びた。その後、共和蠅琉豬錣発生、断腸の思いで寿楽園を去り、当所に列車ペンションききょうを開業したおり、老朽寸前の稲荷堂を上磯地方史研究会と連携して再建し葛登支岬稲荷奉賛会を設立し例祭を挙行して来たが平成十五年一月二十三日、志半ばにして病没した(行年八十八才)。
氏は生前、三木露風の歌碑を建立する夢を持ち続けていた。有志相集い氏の遺志を敬重しこゝに石碑を建立した。
平成十五年七月吉日
発起人 葛登支稲荷奉賛会 会長 加藤哲恵
文 選 上磯地方史研究会 会長 落合治彦
平成26年に行われた例祭に参列させていただきました。