旧村社、国史見在社、元伊勢、艦内奉斎神社(試験艦あすか)
延喜式内社:大和國高市郡 飛鳥坐神社4座 (並名神大 月次・相嘗・新嘗)
:大和國高市郡 飛鳥山口坐神社 (大 月次/新嘗)[境内摂社 飛鳥山口神社]
:大和國高市郡 飛鳥山口坐神社 (大 月次/新嘗)[境内摂社 飛鳥山口神社]
神紋:亀甲左三つ巴
祭神:天事代主命,高皇産霊命,飛鳥神奈備三日女命,大物主命
例祭日:8月18-20日
最寄の交通機関:
飛鳥坐神社は奈良県明日香村の飛鳥寺や蘇我入鹿首塚がある東側の鳥形山に鎮座する。
「参道入口、左手にあるのが飛鳥井、その先に社務所がある」
創建年代や当時の鎮座地などは不詳で、『出雲國造神賀詞』に「賀夜奈流美命ノ御魂ヲ飛鳥ノ神奈備ニ坐テ皇孫命ノ近守神ト貢置」とあり、大国主神が皇室の近き守護神として、賀夜奈流美命の神霊を飛鳥の神奈備に奉斎したとある。
国史における一番最初のものは『日本書紀』天武天皇の御世であった朱鳥元年(686年)7月5日の条に「幣帛を紀伊国の国懸神・飛鳥の四社・住吉大社にたてまつられた(奉幣於居紀伊国国懸神飛鳥四社住吉大社)」とある。ちょうどこの年の9月に天武天皇が崩御しており、病気平癒の祈願として幣帛が奉られた。
また諸説あるものの平安時代に編纂されたという『日本紀略』によれば、天長6年(829年)に神託により現在の鳥形山へ遷座したという。
『三代実録』には清和天皇の御世である貞観元年(859年)9月8日の条に「八日庚申、(中略)飛鳥神、飛鳥山口神(中略)に使を遣りて幣を奉りき。風雨の為に祈りしなり。(飛鳥神(中略)等遣使奉幣為風雨祈)」とある。
延長5年(927年)に全国の官社をまとめた一覧である『延喜式神名帳』には大和國高市郡 飛鳥坐神社四座として名神大社に列格され月次・相嘗・新嘗の奉幣を受け、現在は摂社として鎮座している飛鳥山口神社も飛鳥山口坐神社として大社に列格され月次・新嘗の奉幣を受けていた。
享保10年(1725年)には火災により社殿の大半を焼失し、天明元年(1781年)に高取藩8代藩主・植村家利により再建された。
現在の社殿は平成13年(2001年)に上記の江戸時代に再建された社殿が老朽化してきたことから、吉野の丹生川上神社上社が大滝ダム建設に伴い遷座する際に、旧社殿を移築したもの。
「階段を登った突き当りにある力石」
「拝殿」
拝殿や神楽殿からさらに奥に進むと左手に「むすびの神石」があります。
「むすびの神石」
いわゆる陰陽石で、おんだ祭の夫婦和合の関係からか境内には沢山の陰陽石がありました。
というか明日香村周辺が結構変わった石が多かったりする。
道なりに少し進むと左手に摂社や末社が立ち並ぶ一帯があり、その奥に八坂神社と金比羅神社があります。
「末社・八坂神社と金比羅神社」
「八坂神社と金比羅神社の間にある陰陽石」
さらに奥に進むと奥の社があります。
「奥の社《主》天照皇太神,豊受皇太神」
そこから道なりに戻る感じで歩くと境内摂社で式内社の飛鳥山口神社があります。
「飛鳥山口神社《主》大山津見乃神,久久乃知之神,猿田彦乃神」
・おんだ祭
有名な神事としては、西日本三大奇祭の一つとされる「お田植祭(おんだ祭)」があります。
「おんだ祭が行われる神楽殿」
元々は摂社である八幡神社の祭事であったそうで、毎年2月第1日曜に行われ、春の始まりに五穀豊穣・子孫繁栄を祈る祭りですが、奇祭と言われる所以は公開セッ…夫婦和合の所作があるからです。
祭の前と後に天狗と翁と牛が先を割った青竹(ササラ)を持って、村中の人の尻をフルスイングでたたきながら暴れまくる。結構な勢いで叩くので叩かれる方は痛いのだが厄祓いになるらしい。
祭は天狗とお多福(プラス翁)のコミカルな「子孫繁栄の神事」(モノは言いようである)があることで知られている神事ですが、いわゆる「田遊び」というもので、田遊びは田を牛で犂を引いて耕す所から始まり、稲作の各作業を演じてその年の豊作を祈願する予祝行事です。
「天狗(夫)、お多福(妻)、翁(仲人)という役割。画像はイメージ」
中でも田植えの際に用いられる稲の苗を模した松の枝(苗松)や、天狗とお多福の××の事後にアレを「拭いた」紙(福の紙)は、餅まきのような感じで見物客に授与されますが、苗松は田圃の水口に差しておくと農作物に虫が付かず、福の紙は子宝に恵まれるといわれ、それ目的で大勢の参拝客が訪れます。
御朱印には「元伊勢」とあります。
元伊勢といえば神託によって天照大御神が笠縫邑から各地を経て現在の伊勢神宮へ至るまで各地で祀られていた所を指しますが、この飛鳥坐神社も最初に祀られていた笠縫邑の伝承地の一つで元伊勢と称されていました。
自分にとって人生一番最初に参拝した神社でもあるので思い入れが深いのですが、参拝したのがおんだ祭が行われた一週間後だったので、あと一週間早く来ていればと後悔した記憶があります。
試験艦『あすか』
海上自衛隊の試験艦「あすか」の艦内神社には飛鳥坐神社の神札が奉斎されています。
帝国海軍時代から数えると試験艦「あすか」は2代目で、命名基準として名称旧跡から採られているので現在の試験艦あすかと同じ。
初代「飛鳥」は元は中国海軍の砲艦「永建」(ユンチュン)。大正4年(1915年)に上海の江南造船所で建造され、昭和12年(1937年)の日華事変の際に上海で修理中の所を日本軍の爆撃で擱座着底。日本軍が上海を占領後に浮揚・修理して特設水雷砲艦「飛鳥」として就役させた。
昭和16年(1941年)12月8日の太平洋戦争開戦初日に上海で「出雲」「勢多」「熱海」と共同で英国海軍砲艦「ペトレル」の撃沈に参加。
昭和20年(1945年)に対空哨戒艦となったが、5月7日に黄浦江でB-29の爆撃を受けて沈没した。
「試験艦 あすか」 (ASE-6102) [海上自衛隊 写真ギャラリーより引用]
2代目の「あすか」は、自衛隊の技本で開発された艤装品を装備し試験運用するためのテストベッド、試験艦のとして建造された。姉妹艦は無い。
見た目の違いは、他の戦闘艦と比較して鋭く突き出た艦首、そして艦上構造物の上の、例えて言うなら修験者が額につける頭襟(ときん)のような形をしたフェイズドアレイレーダー(射撃指揮装置3型(FCS-3))である。
「↓頭襟はこんなの」
![イメージ 13]()
堺港に試験艦「あすか」入港の際など乗組員が艦名の由来となっている飛鳥坐神社に参拝するのが恒例となっているようです。
計画:平成4年度計画
発注:1992年
起工:1993年4月21日 住友重機械工業浦賀造船所
進水:1994年6月21日
就役:1995年3月22日
排水量:基準 4,250トン、満載 6,200トン
全長:151.0m
全幅:17.3m
深さ:10.0m
吃水:5.0m
機関出力:43,000PS
速力:27ノット
乗員:70名+試験要員100名
兵装:Mk.41mod.17 VLS×8セル、3連装短魚雷発射管×1基
艦載機:ヘリコプター1機搭載可能
発注:1992年
起工:1993年4月21日 住友重機械工業浦賀造船所
進水:1994年6月21日
就役:1995年3月22日
排水量:基準 4,250トン、満載 6,200トン
全長:151.0m
全幅:17.3m
深さ:10.0m
吃水:5.0m
機関出力:43,000PS
速力:27ノット
乗員:70名+試験要員100名
兵装:Mk.41mod.17 VLS×8セル、3連装短魚雷発射管×1基
艦載機:ヘリコプター1機搭載可能