住所:京都府宮津市由良宮本2362 (E1351650 N353058)
旧府社、艦内神社(巡洋艦「由良」)
神紋:五三桐
祭神:伊弉諾命,櫛御気命,誉田別命
例祭日:10月10日
最寄の交通機関:北近畿タンゴ鉄道宮津線「丹後由良駅」下車、徒歩6分
舞鶴市街を西に抜け、由良川を渡って由良川沿いに宮津方面に向かうとタンゴ鉄道の由良川橋梁が見えてくる。
これをくぐると丹後由良の市街地。清酒『白嶺』のハクレイ酒造の駐車場を通り過ぎ、少し走ると左側に少し広めの車道とその先に小さな鎮守の森が見える。
そこが由良神社だ。
この由良神社のある由良は現在は海水浴場と酒造の街だけれど、かつては北前船の港として百人一首の「由良の戸」とも歌われ、森鴎外の『山椒太夫』の舞台となった場所とされていて、由良神社は由良港の繁栄時以前から鎮座していたと言われています。
「国道前にある『花御所八幡・由良神社』の社号標」
元は熊野三所権現と称され、室町幕府3代将軍の足利義満が造営した京都の花の御所に鎮座していた花御所八幡宮を遷座して由良神社と称されるようになったという。
田辺藩主歴代の崇敬篤く数回の社殿修復直参代参奉幣寄進等があった。
昭和17年(1942)府社に列す。
「拝殿」
「本殿」
拝殿の中には由良の清酒・白嶺の酒樽が奉納されていました。
「拝殿内にある白嶺の酒樽」
「拝殿前の左右に鎮座する熊野神社(左)と境内社(右)」
「由良郷土館」
「境内左手にある社務所」
・新宮凉庭顕彰碑
境内右手の由良郷土館の前には、江戸時代の由良出身の蘭方医・新宮凉庭(しんぐうりょうてい(1787~1854)の顕彰碑が建っています。
境内右手の由良郷土館の前には、江戸時代の由良出身の蘭方医・新宮凉庭(しんぐうりょうてい(1787~1854)の顕彰碑が建っています。
ここに略記をそのまま載せておきます。
贈正五位新宮凉庭先生略伝
新宮凉庭、名は碩、駆豎斉或いは鬼国山人と号し、徳川中期に最も傑出した儒医であります。天明七年三月十三日丹後の由良に生れ、青年時代蘭学に志して長崎に赴き通詞吉雄永保の塾に学び、ついで当時の蘭館長ヅーフにみとめられ、蘭医フェールケ及びバティに師事して学殖が豊かになり、帰国後京師に開業して当代随一の流行医と称せられるようになりましたが、此間蓄積した巨万の財を有意義に散ずべきことを心得「良医に国の病を治す」と云う抱負の下に経国済民の大業に手をつけ、当時打ち続く凶作のため全国到るところ餓孚(草冠に孚)が路に横たわるといった状態であっても、各藩の財政が疲弊の極に達しているため救拯の挙に出てないのをみた凉庭は、起って諸藩候に済世治保の策を献じ、先づ旧恩深き牧野家領下士民のため金穀を贈ること数度、ついで盛岡・福井両藩の請によってその財政を整理し、諸藩の学費を献するほか京都東山に私学順正書院を営んで後学の指導につとめました。後この順正書院に出入した一條相公・久我亜相、出石、鯖江、宮津、綾部などの藩侯、その他篠崎小竹・頼三樹・斉藤拙堂・梁川星巌・藤井竹外などの文人墨客の作品を集めて「順正書院記」及び「順正書院詩」が刊行されています。また凉庭の著書として知られているのは医術関係では「窮理外科則」「泰西疫論」「療治鎮言」「人身分離則」「外薬則」「外用方符」「解体則」「血論」「小児科書」「婦人科書」文芸その他に関するものには「西遊日記」「但泉紀行」「駆豎斉文鈔」及び詩鈔其他数種ありますが特に有名なのは、「破れ家のつづくり話」の上中下三巻であります。嘉永六年秋から宿痾漸く重く、翌安政元年一月九日六十八年の壽を京師に終え、遺骸は、南禅寺大授庵に葬り「順正院新開凉庭居士」と諡しました。大正四年先生生前の功により正五位を追贈されたのであります。
新宮凉庭、名は碩、駆豎斉或いは鬼国山人と号し、徳川中期に最も傑出した儒医であります。天明七年三月十三日丹後の由良に生れ、青年時代蘭学に志して長崎に赴き通詞吉雄永保の塾に学び、ついで当時の蘭館長ヅーフにみとめられ、蘭医フェールケ及びバティに師事して学殖が豊かになり、帰国後京師に開業して当代随一の流行医と称せられるようになりましたが、此間蓄積した巨万の財を有意義に散ずべきことを心得「良医に国の病を治す」と云う抱負の下に経国済民の大業に手をつけ、当時打ち続く凶作のため全国到るところ餓孚(草冠に孚)が路に横たわるといった状態であっても、各藩の財政が疲弊の極に達しているため救拯の挙に出てないのをみた凉庭は、起って諸藩候に済世治保の策を献じ、先づ旧恩深き牧野家領下士民のため金穀を贈ること数度、ついで盛岡・福井両藩の請によってその財政を整理し、諸藩の学費を献するほか京都東山に私学順正書院を営んで後学の指導につとめました。後この順正書院に出入した一條相公・久我亜相、出石、鯖江、宮津、綾部などの藩侯、その他篠崎小竹・頼三樹・斉藤拙堂・梁川星巌・藤井竹外などの文人墨客の作品を集めて「順正書院記」及び「順正書院詩」が刊行されています。また凉庭の著書として知られているのは医術関係では「窮理外科則」「泰西疫論」「療治鎮言」「人身分離則」「外薬則」「外用方符」「解体則」「血論」「小児科書」「婦人科書」文芸その他に関するものには「西遊日記」「但泉紀行」「駆豎斉文鈔」及び詩鈔其他数種ありますが特に有名なのは、「破れ家のつづくり話」の上中下三巻であります。嘉永六年秋から宿痾漸く重く、翌安政元年一月九日六十八年の壽を京師に終え、遺骸は、南禅寺大授庵に葬り「順正院新開凉庭居士」と諡しました。大正四年先生生前の功により正五位を追贈されたのであります。
丹後由良というと個人的には由良川橋梁が京アニ版『AIR』で登場していたりと印象深い。
他にも、由良の酒造会社であるハクレイ酒造は『東方Project』の博麗神社の名前のモデルとも言われているので、小さな街ではあるものの舞台探訪を生業(?)としている人間には結構濃ゆい場所だったりする。
「清酒『白嶺』『酒呑童子』などの蔵元・ハクレイ酒造」
もちろん由良川橋梁も行ったけど、ハクレイ酒造は定休日だった…。
大日本帝国海軍の長良型軽巡洋艦の『由良』は、丹後由良の由良川から命名され、艦内神社は由良神社からのご分霊を祀っていたとされる。
しかし境内には「由良」関係の石碑などは見当たらなかった。
「由良川(由良川橋梁近くから)」
・軽巡洋艦「由良」
「由良」は旧日本海軍の軽巡洋艦。
「長良」「五十鈴」「名取」「由良」「鬼怒」「阿武隈」の6隻からなる長良型軽巡洋艦の4番艦、若狭湾に注ぐ由良川から命名された。
就役後から第三・七・八戦隊に所属し水雷戦隊・潜水戦隊旗艦として活躍し、開戦時は第五潜水戦隊旗艦として小沢治三郎中将率いるマレー攻略作戦に参加。
その後、ジャワ攻略作戦に第三水雷戦隊旗艦として船団護衛にあたり、潜水艦の雷撃で大破した「那珂」の代わりに第四水雷戦隊旗艦としてミッドウェー海戦に参加。
そして昭和17年10月25日・南太平洋海戦の前日にB-17爆撃機とドーントレス爆撃により航行不能となり「夕立」「五月雨」の雷撃及び砲撃処分とされた。
軽巡「由良」 (1937年7月18日 上海港)
起工:大正10年(1921)5月21日 佐世保工廠
進水:大正11年(1922)2月15日
竣工:大正12年(1923)3月20日
排水量:5570トン
全長:162.15m
全幅:14.17m
喫水:4.80m
馬力:90,000PS
速力:36.0ノット
兵装:三年式50口径14cm単装砲×7基7門、八年式61cm連装魚雷発射管×4基、九六式25mm連装機銃×2基4門、13mm四連装機銃×2基4門
水偵:1機、射出機×1基
乗員:440名
沈没:1942年10月25日
除籍:1942年11月20日
進水:大正11年(1922)2月15日
竣工:大正12年(1923)3月20日
排水量:5570トン
全長:162.15m
全幅:14.17m
喫水:4.80m
馬力:90,000PS
速力:36.0ノット
兵装:三年式50口径14cm単装砲×7基7門、八年式61cm連装魚雷発射管×4基、九六式25mm連装機銃×2基4門、13mm四連装機銃×2基4門
水偵:1機、射出機×1基
乗員:440名
沈没:1942年10月25日
除籍:1942年11月20日
参拝したのはまだ『艦これ』が出る前だったので、純粋に由良の艦内神社という理由での参拝。
図鑑の自己紹介で、B-17とドーントレスが苦手っていうのは沈没の原因となったことからだろう。